見出し画像

チーズ蒸しパンの中で暮らしたい

 転ばないように下を向いて歩くようになった。もう長い間空を見上げていない。
 ショーウインドウに映る僕の姿。背中が曲がり、白髪が増え、目からは光が消え、たった一年で十歳以上年老いたようだ。
 もう転びたくないんだ。擦り傷さえ怖いんだ。
 うっかり、光に憧れ、空に手を伸ばし、足元の小石に躓いたあの時。身の程を知った。
 傷口から溢れ出す血が沼のように広がって、僕の足首を掴む。何度も何度も立ち上がろうとするけれど、うまくいかず、再び転んで、沼に沈みかける。息が出来なくて、苦しくてもがいて、ようやく沼から這い上がった時、聞こえて来たのは、仲間だと信じていた者たちからの嘲笑。両手で耳を塞いでも指の隙間から入り込んでくる。塞ぎかけていた傷口が開いて、また血が吹き出す。そして、再び血の沼が出来上がる。もう、沈みたくない。僕は必死で逃げた。逃げた。
 どうして逃げるの。ねぇ。
 沼の底から美しい声が響く。その声はやがて美しい音色となって、逃亡する僕の足を止めようとする。振り返りたくないのに、振り返ってしまう。そうして、また僕は、足元の小石に気付かずに転ぶ。
 傷が増えた。古傷さえも開いて血が溢れ出す。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 僕は獣のように叫んだ。声が枯れるまで叫んだ。やがて僕の叫びは祈りとなり、空へ届いた。雲の切れ間から、帯のように降りて来る光が、僕の身体を包み込んだ。
 チーズ蒸しパンだ。
 柔らかくて暖かくて甘くて。心地いい光は、学生の頃、休み時間に食べたチーズ蒸しパンみたいだった。
 僕はようやく、悲しみの底から這いあがった。
 また以前のように歩きたかったけど、怖くて仕方なかった。足が震えて、うまく歩けない。もう転びたくない。転びたくないよ。転びたくないよ。
 だから、俯いて歩くしかなかった。
 空の青さだとか、満開の桜だとか、光り輝く緑だとか、そんな光り輝く美しいモノ達を見る余裕なんてないんだ。
 世界がどんなに美しいかって、そんなのわかってる。わかってるけど、怖いんだ。直視できないんだ。またうっかり憧れて、浮かれて、手を伸ばして、転んでしまったらって、考えたら恐怖なんだ。
 美しいモノから遠ざかって行く僕は、どんどん卑屈になっていった。
 わかってる。わかってるけど、転びたくないんだよ。こうやって生きて行くしかないんだよ。
 気に食わない奴に頭下げたり、愛想笑いしたり、僕はすっかり、子供の頃見下していた大人そのものになった。
 最低だ、最低だ、最低だ。
 もし、僕がチーズ蒸しパンの中で、ずっと、暮らしていけるなら。転んでも痛くなんてないから、美しい世界を直視できるだろう。憧れて、浮かれて、手を伸ばしたっていいんだ。
 お願いだ。お願いだ。たった一つのお願いだ。
 僕は、チーズ蒸しパンの中で暮らしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?