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暑さのせい【短編】

アイスが食べたい。無性に食べたい。食べなければ死んでしまう。

 まるで、砂漠で見つけたオアシスのようだった。普段は入らないスーパーである。以前入った時、店内が狭くて、人とすれ違うのに気を遣い、買い物しづらかったから、避けていた。でも、今は緊急事態である。ここで買おう。

 今日は仕事で後輩のミスをフォローし疲弊していた。会社を出る頃には、日は沈みかけていた。日中の暑さに比べたら、まだマシかもしれないが、それでも生ぬるい湿った空気が肌にまとわりつく。ぬるめの湯が入った浴槽の底を歩いている感覚である。

 疲弊しきっていたが、アイスさえ食べれば復活できる。そんな気がしていた。だから私は、会社から自宅への帰路で、そのスーパーへ入店した。

 冷房の効いた店内に入った瞬間、あまりの心地良さに、ため息が出てしまった。まさにオアシス。疲れと暑さで朦朧としていた頭が、徐々に冴えてくる。アイス。アイスを買う。アイスを買う!強い意志が蘇ってくる。私は買い物カゴを手に取り、アイス売り場へと向かった。

 アイス売り場へと向かう途中、化粧品売り場を通りかかる。そういえば、日焼け止めがそろそろ切れる頃だ。愛用のものがもしここにあれば、ついでに買っておこうか。商品棚には、先に商品を物色していた女性の姿があった。私と同年代くらいだろうか。ジーンズにTシャツ、スニーカー。腕には大き目のエコバッグ。彼女は棚から一つのリップを取ると、素早く持っていたエコバッグに入れた。

「あ」

 思わず私は声が出てしまっていた。その声に気づいた彼女が振り向く。

「え」

 彼女は私の顔を見て驚きの表情を浮かべる。その顔には見覚えがあった。同級生だ。高校の時、同じクラスだった。名前は「夏美」

「久しぶり」

 そう笑いかけると、夏美はエコバッグからリップを取り出して

「間違って、こっちに入れちゃった。これじゃあ、万引きになっちゃうね」

 と、持っていた買い物カゴに入れ直した。

「よかったよ。万引きじゃなくて」

 私は気まずい空気を打ち消す様に大げさに笑う。

「暑くて頭ぼーっとしちゃってたのかも」

 夏美も大げさに笑う。

「そうだね。暑さのせい、暑さのせい」

 私達は一層大げさに笑う。

 ああ、もう、今すぐこの場から逃げ出したい。

「このことは、黙っててくれるよね。美冬」

 彼女は私の名前を読んだ。「夏美」と「美冬」。対称的な私達の名前。

「うん。だって、ただの間違いなんだし」

「うん。間違いなの」

 夏美は訴えるように、私の目を覗き込む。この目、この目が私は苦手だった。

「わかってるよ。じゃあ、私は、アイス選びに行くね。またね」

 また会う事はないだろう。連絡先も知らないし。とにかく、逃げ出したかったので、その場から離れようとすると

「私もアイス食べたかったの。奢るよ」

 夏美は私についてこようとする。

「そんな、悪いからいいよ」

 断ろうとすると

「じゃあ、久しぶりに会ったんだから、少し話そう。それぞれアイス買って、あそこで食べよう」

 夏美は店内のイートインスペースを指さす。

「でも、今日はこれから予定があって……」

「少しだけだから、いいでしょ」

 こんな強引なところも、苦手だった。

「わかった」

 私はしぶしぶ頷いた。


 私達はそれぞれアイスを購入し、イートインスペースに向かった。窓側の席に座る。帰宅するサラリーマンや学生たちが行き交う姿を眺めながら、私達はアイスを口にする。

 私はしろくまアイス、夏美はストロベリーアイス。三口目まで、私達は無言だった。先に口を開いたのは、夏美だった。

「美冬はきれいになったね」

 懐かしそうに夏美が目を細める。

「そんなことないよ。夏美こそ、きれいになった」

 それは、本心ではなかった。

 夏美は、高校生の頃、クラス一の美少女だった。誰もが振り返るほど。人形のように整った顔立ち、さらさらで艶のある長い髪、細くて長い手足。いつも輝いていた。

 でも、今の夏美は、顔立ちはそのままではあるものの、目元はクマが出来て疲れ切った様子。髪は根元が黒く毛先が茶色くパサついており、長い間手入れがされていない。首元が伸び切ったTシャツに、汚れたジーンズとスニーカー。あの頃の輝きは失せていた。

「嘘はやめて。わかってる。みっともないよね。今の私」

 私達は、あの頃、たいして仲良くもなかった。ただのクラスメイトだった。美人で友達も沢山いて、クラスの人気者だった夏美。そして、地味で友達も少なく、教室の端にいた私。名前と同じように対称的だった。

 交わることなどない二人だったはず。関係ない。面倒な事には巻き込まれたくない。だけど

「何か、あった?」

 そう聞かざるを得なかった。

「うん。何か、色々……。生きるって、大変だよね」

 話したいのか、話したくないのか、よくわからない。

「確かに、そうだね。私も去年、離婚したばっかりだし、最近、母親も病気がちで、そろそろ介護なのかなって、不安もあるし、人生って大変」

 ここは、自分の不幸話でもしておこう。

「そうなんだ。美冬も頑張ってるんだね」

「頑張ってるつもりはないけど、それでも生きて行かなきゃって感じ」

「うん。そうだね」

 私達はその後、無言でアイスを食べた。気まずい空気が耐えられなかった。いくら、ここが冷房が効いていて快適でも、一秒でも早く、外の生ぬるい世界へ飛び出したかった。

 先にアイスを食べ終わったのは、夏美の方だった。彼女は空になったアイスのカップをゴミ箱に入れて振り返り

「今日はありがと」

 笑って、私の前から去った。

 彼女を引き留めて、連絡先を聞いて、悩み相談にでものってあげることは出来たかもしれない。でもしなかった。

 私はこんなに冷たい人間だっただろうか。いつもの私なら、もう少し、優しさがあったはずなのに。

 きっと、暑さのせいだ。暑さのせい。



 アイスが食べたい。今食べなければ死んでしまう。

 一年後、私はまた仕事帰りに、あのスーパーの前にいた。

 今日も後輩のミスのフォローをして残業をし、疲れ切っている。すっかり日は暮れていたが、生ぬるい空気が肌にまとわりついて不快極まりない。もう、アイスを食べなければ、復活できない。

 去年、夏美に会って以来、このスーパーには来ていない。あの時、夏美に優しく出来なかった自分を思い出したくなかったから、足が遠のいていたのだ。でも今は、とにかく、一秒でも早くアイスを手に入れたかった。だから、入店した。

 アイス売り場へ向かう。途中、化粧品売り場にも目をやる。夏美らしき人物はいない。よかった。

 アイス売り場でしろくまアイスを手に取る。あの時も、このしろくまアイスを食べたっけ。思い出してしまうけど、でも、このアイスが好きだから仕方ない。

 レジへ向かう。セルフレジには列が出来ていた。有人レジには列はない。三番の有人レジへ入ると

「いらっしゃいませ」

 明るい声で店員が迎えてくれる。聞き覚えがあるような気がして、顔をあげる。

「あ」

「え」

 夏美だった。

「久しぶりだね」

 彼女は私に笑いかける。去年の夏美とは違っていた。健康的な肌に、艶やかな髪。何より、失っていた輝きが戻っている。

「久しぶり」

 私は眩しさについ目を細める。

「またしろくまアイスだ。好きなんだね」

 夏美は懐かしそうにアイスを掲げてみせる。

「うん。好きなんだ」

「元気そうでよかった」

「夏美こそ、元気そうで、よかった、ほんとに」

「あの時は、何かごめんね」

「私こそ、ごめん。何も出来なくって」

「何も出来なくはなかったよ。あの時、美冬に会えたおかげで、何とか立ち直れたの」

「ほんと?」

「うん。美冬と出会わなければ、間違いを犯すところだったから。あの時はありがとう」

「そんな、私は何も。あの日は暑くて、アイスが食べたくて、このスーパーに寄って、たまたま夏美に会っただけで」

「暑さのせい」

「そう。暑さのせい」

 私達は声をあげて笑った。大げさに。


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