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掌編小説

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2018年3月の記事一覧

さくら象

さくら象

 「今年の桜はいつ咲くのかな」

 隣で穏やかな笑顔を浮かべ、僕の顔を覗きこむ妻の背後には、夕日を滴らせた桜の枝が伸びていた。

 まだ蕾は膨らんでおらず、早くても来月だろうと予測はついたが、そんなつまらない答えを、彼女は待ってはいないのだ。

「さくら象が現れたらじゃないかなぁ」

「さくら象?」

「さくら象の踏みしめた大地は、例えどんなに凍てついた氷河でさえ、たちまち溶かしてしまうらしい」

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停電の夜

停電の夜

 どぶんと夜の水槽に沈んだ。停電の瞬間に、僕の息は止まる。

 正常に呼吸が出来る事を確認し、ここは水槽の底ではなく、住み慣れた古びたマンションの一室なのだと理解した。

 僕はキッチンで包丁を握っていて、トマトを切ろうとしていたはずだった。

 危ないので、右手に握っていた包丁を置く。左手でトマトを捜す。

 先ほどまで触れていた、トマトのつるりとした感触が見当たらない。

 暗闇に紛れて、どこ

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湖底電話

湖底電話

「固定電話」と入力するはずが、「湖底電話」と入力していた。

 湖底の電話。湖底に眠る電話。湖底人の電話。湖底から通じる電話。湖底産の電話。

 頬をつねる北風は、湖面をひっかいては、さざ波を生み出していた。

 その波のひとつひとつを数えながら、釣り糸を垂らす。

 獲物がかかるまで、私は、昨晩入力した原稿に目を通し、入力ミスに気づいた。

 青空をそっくり写した湖面は、時折吹く北風に揺れ、陽

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