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停電の夜

 どぶんと夜の水槽に沈んだ。停電の瞬間に、僕の息は止まる。

 正常に呼吸が出来る事を確認し、ここは水槽の底ではなく、住み慣れた古びたマンションの一室なのだと理解した。

 僕はキッチンで包丁を握っていて、トマトを切ろうとしていたはずだった。

 危ないので、右手に握っていた包丁を置く。左手でトマトを捜す。

 先ほどまで触れていた、トマトのつるりとした感触が見当たらない。

 暗闇に紛れて、どこかへ消えてしまったのだろうか。

 トマトよりも、懐中電灯を捜すべきなのではないかと、我に返る。

 手探りでリビングへ進むと、ソファにつまづいて倒れてしまった。

 このまま眠りに落ちれば、やがて朝がやって来て、懐中電灯よりも圧倒的な光を運んでくれるだろう。

 やみくもに光を捜すよりも、この暗闇に身を委ねる方が、いいのかもしれない。

 僕は、諦めて、静寂のシーツにくるまり、目を閉じた。

 深海を漂う、正体不明の生物の気持ちになる。

 静けさに満ちた世界は、深海の底のようで、地球の鼓動に近い場所だった。

 僕の鼓動と、地球の鼓動が共鳴した時、眠りに落ちたのだと思う。

 窓から溢れる朝日の果汁が、リビングを水浸しにするので、目が覚めた。

 僕の枕元には、トマトがある。

 つるりとした皮膚を、朝日の滴が滑り落ちた。

#小説 #掌編


 

 

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