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さくら象

 「今年の桜はいつ咲くのかな」

 隣で穏やかな笑顔を浮かべ、僕の顔を覗きこむ妻の背後には、夕日を滴らせた桜の枝が伸びていた。

 まだ蕾は膨らんでおらず、早くても来月だろうと予測はついたが、そんなつまらない答えを、彼女は待ってはいないのだ。

「さくら象が現れたらじゃないかなぁ」

「さくら象?」

「さくら象の踏みしめた大地は、例えどんなに凍てついた氷河でさえ、たちまち溶かしてしまうらしい」

 いまだに残る土色によごれた根雪をみつけ、僕はブーツの踵で踏みつけ、砕いた。

「どんな象なの?」

「春の使者だからね。とてもお気楽な奴だよ。長い鼻を揺らして、歌いながらやってくる」

 僕は、ボビー・マクファーリンの「Don't Worry ,Be Happy」を口笛で吹く。

 妻の大好きな曲だ。

 彼女は嬉しそうに僕の手を握ると

「さくら象、見つけたよ」

 夕日に向かって、僕達の繋いだ手を伸ばした。

 空の淵でしぶきをあげる夕日の芯に、どぼんと僕達の腕が飛び込んだ時、アスファルトには、象の影が浮かび上がる。

 口笛を吹きながら、僕は影の隅をブーツのつまさきで、こつんと叩いた。

 影はアスファルトから剥がれ、長い鼻を桜の枝に巻きつけていった。

 枝先がほくほくと上気し、蕾が膨らみかけた時、妻の大きなくしゃみが、辺りにこだまする。

 ぱちんと、影は消えてしまった。

 それから、ぱちんと、世界の明かりも消えた。

 透明な夜に、雪解けの音が鈴のように降り注ぐ。

 どこからか、お気楽な歌が聞こえて来た。

#小説 #掌編

 



 



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