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ADHDと片付け①

 ADHDの傾向がある人、またはその傾向があるお子さんを子育て中の方。
 突然だけど…部屋、散らからない?
 来るなら連絡してよ、散らかってるんだから〜(*´艸`*)
 のレベルじゃなく、ガチで足の踏み場もなくなって、掃除機がけが無理。重い腰をあげて一念発起しても、その日の夜にはリバウンド。
 足の裏には何か小さい痛いものを踏むし、クレヨンやらパズルやら使いたいときには何かしら一部が足りなくて、いつも探しものからスタート。子は癇癪。
 ああ疲れる。
 
 先に言っとくと、色々工夫しても、これって完全には解決しない。あれこれやって表面的な状況は多少変化しても、私たちの性質は変わらない。
 そもそも、マイナスの現状をゼロにする為に使う体力気力時間を、私は出来るだけ節約している。この水面下の労力は、最初からゼロ以上の目盛で生きてる人からしたら、存在すら知らないものだ。ここに全力をかけてしまうと、ヘロヘロ状態かつ始めからゼロの人=健常者としてパフォーマンスを求められてしまう。

 片付けなら、発達障害の本を見ながら本と同じ収納ケースを揃え、綺麗に分類してラベリング、使ったものはすぐに元通りにする、みたいなこと。出来たらすごいし、やれるならやりたい。
 でも、疲れる。片付けだけやって後は寝てていいなら話は別だが、実際はそうじゃない。必死で片付けた後の買い物、夕飯の仕度、洗濯。ムリムリ。
 だから、私は予め妥協ラインを決めている。限界まで散らかった部屋=マイナス10なら、一般的な生活感のある部屋=ゼロを目指すのではなく、物は多いが何とか清潔に暮らせる=マイナス2くらいを目指す。
 これは片付けに限らずで、大きいマイナスはゼロのちょい手前くらいまでがんばって、あとの凹みは「苦手なんだゴメン」くらいが病まないコツ。

 片付けに話を戻すと、我が家なら床に掃除機をかけられることがこのマイナス2ラインだ。5歳の娘にも、何日も床に置きっぱなしのものは全部吸われるよ、と伝えてある。
 もちろん、日によってマイナス8程度のまま寝ることもあるが、そこはご愛嬌だ。

 以下、長くなるので何回かに分けて、我が家の片付け事情を紹介していく。

① よく使うものは、見える収納
 
 見えなくなる形でしまうと、何処へやったかわからなくなって全部出すことになり、余計散らかる。ADHDあるある?少なくとも、私と娘はそう。だから、少ないワーキングメモリをものの収納場所に食われないように、いわゆる「見せる収納」を軸としている。見せる(=見栄え)より自分の使い勝手が優先だから、「見える収納」だろうか。

 我が家では、娘が自分で好きなものを出して、遊んだり着たりできるようにしている。従って、玩具や子供服なども、よく使うものに絞って本人目線で見えるように並べておく。
 具体的には放り込み型の玩具箱や、平置きの絵本棚、子ども用ハンガーラック。ケースなら透ける素材でフタはしない。
 数が置けないので溢れた分は押入れなどへ入れ、たまに遊んでなさそうなものは押入れの待機組と入れ換える。
 色鉛筆はケースから出して、ペン立てに。万一あとから一本だけ出てきても合流できる。

 私の調理器具も、こんな感じ(お恥ずかしい!)。コンロ近くは少し油が散るが、ベトベトになったり埃をかぶるものは使用頻度が低いので、次からは戸棚へしまう。 

 外へ置く一軍、二軍を厳密に分けようとすると挫折する。私は一週間以内に使ったものだけ並べて、後は暮らしながら入れ替えている。(うちは押入れや戸棚の中は崩れなければヨシ、くらいで妥協している)

 置き場所だが、ここは服、ここは人形、皿、程度には固定するが、私はあまり細かく分類しない。置き場所の解釈に幅があった方が、入れ替えたり新しく増えたものを加えやすいから。
 でも、ASD傾向の旦那はビッチリ分類して、新しいものが来たら新しい場所を作る、を好むことも書き添えておく。

② 最終的に片付くなら、散らかしていい

 ―――まずは、ひとつのことをきちんと終えて、片付け終わってから次のことへ取り掛かりましょう。


 行動療法やら療育やら受けていると言われない?私と娘は言われまくった。
 実際にそうすれば散らからないし、何かを完遂する力は大切だから、ひとつを終わらせて次をやる練習は必要。
 でも、言うは易く行うは難し。

 私は考えが浮かびやすい。良いことも悪いことも、大きいことも小さいことも、とにかく芋づる式に思いつく。思いつきすぎて、役に立つとかしょーもないとか、咄嗟の判断が追いつかない。
 そして、忘れる。メモする、口に出す、少し行動に移しておく。何かやらないと、片っ端から忘れる。内容を吟味する前に忘れると、何か良いこと思いついてたはず、と激しくモヤモヤする。
 で、忘れる前に考えと現実を繋げておきたくて、元の作業が途中でも別のことを始める。やりかけの仕事や家事が積上がる。やりかけだから、道具はそのまま。部屋は散らかる。
 そこで冒頭の我慢!訓練、訓練!!

 できない。
 一見無関係な次の行動も、私の頭では何らかの連想で繋がっている。衝動を振り払っても、すぐまた似たようなことを思いつく。
 湧き上がる妙案(と、その瞬間は信じている)を押し殺すのは、尿意の我慢と変わらない。

 じゃあ、せめて、前の道具を片付けてから。
 ごもっとも。だが、すぐ忘れる頭には片付けの時間すら惜しい。それに、綺麗に前の道具を片付けてしまうと、その作業に戻ること自体を思い出せなくなる。元の作業に戻る気はあるので、わざと半端にしか片付けなかったりするぐらいだ。

 娘が遊んでいるのを見ていても、
 レゴブロックで魚ができた→魚釣りしたい!→マスキングテープで魚をくっつける→テープを巻いてたら天ぷらみたい→ままごとセット登場→魚以外のおかずも欲しい→折り紙登場
 といった具合に次々に思いつきで玩具を増やしていく。
 これを、レゴはレゴで使ったら一旦片付けなさい。ままごとはままごとで、折り紙は折り紙で片付けなさい。と指示すると、急に遊べなくなってウロウロしだす。レゴで釣り竿や鍋や皿を作ってやっても、見向きもしない。

 社会生活で、納期までに仕上げる力は必要だ。
 大事な仕事を完遂できません、では困るから、思いつきを押し殺し、脱線を繰り返す自分にうんざりしながら、作業をやり遂げる練習はしといた方がいい。会社や学校の共用品も、使ったら忘れないうちに返さないと。

 でも、だからと言って私たちは日常生活の全てにおいて、そうなる必要があるだろうか。
 
 職場や保育園では上記を目指す私と娘だが、自宅では自分の脳が求める行動様式を受け入れることにした。娘は色んな玩具を広げ放題で遊ぶし、私も色んな家事に手を出しつつ、広げっぱなしのパソコンで通りすがりに文章を書いたりしている。
 また、家族それぞれに物を置いていい場所があって、やりかけにしたいものは一旦そこに置いている。(次のやりかけを置きたいときには、先にあるものと天秤にかけてどちらか片付ける)
 ある棚の上には娘が生み出したカラフルなゴミ(失礼!)が入った皿がおかれ、別の棚の上には私がやりかけのビーズ細工が置かれ再開を待っている。
 当然、作業効率はイマイチだが、「オシッコ我慢」より自分らしくて楽だ。

 プライベートでは、最終的に自力で部屋を復元できるなら、その過程は「ひとつ出したら、片付ける」の一路じゃなくっていいと私は思う。
 だって、ひとつずつ、を徹底して部屋が散らからなくなっても、自宅で寛げないって本末転倒じゃない?


 長くなってしまったので、今回はこの辺りで。片付けは私にも娘にも大きなテーマ過ぎて、話がつきない。
 今の私たちの定点観測的な覚書もかねて、また少しずつ書き足してゆく。 


 長文を読んで頂きありがとうございました。

 
 
 

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