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星野源の思想2(星野源は「海」によって破綻するかもしれない)


1.はじめに

 本文に入る前に、まず前回の記事の要点をまとめる。
 星野源は現実や真なる世界を追求するのではなく、自分自身の作る嘘や妄想の世界を生きることに価値を見出していると筆者は論じた。そして星野はその根拠として時の概念に触れていることを指摘し、終わりがある私たちが続く(連続する)ことが嘘や妄想の一つの形としての愛に依拠していると考えられることを述べた。つまり星野は、私たちが生きていくためには時をつなぐ愛が必要であることから、愛の中で生きることを重要視しているとした。

 このように、筆者は前回星野について、彼を論ずるときには彼の使う「意味」という言葉がもつニュアンスについて知る必要があるという立場から論じた。
 しかし読者の中には、星野の書く歌詞を読み解くときに第一に「意味」について取り扱うことに違和感を覚えた方もいるかもしれない。確かに、星野が積極的に歌詞の中に含める言葉は他にもいくつか思い浮かぶ。それに、前回論じたように、星野は「意味」という言葉に対しては一貫して否定的である。否定的な立場を取っている言葉を彼を代表する言葉のように扱うのは、確かに少々問題があると言える。前回代表として掲げた「恋」では、「意味」に対置する形で「暮らし」という語を使っていたが、実は星野は「暮らし」という歌詞をそれほど多く採用していない。
 では、星野が積極的に使っており、さらに肯定されているような語はなんだろうか。結論を先取りする形になるが、筆者はそれを「くだらなさ」「海」であると考えている。
 
 前回の記事ではYouTubeにミュージックビデオが上がっている曲のみを用いて論じたが、今回のテーマにはそれ他の曲からも引用することが必須であると考えられたため、言及する多くの楽曲は公式動画としてはアップロードされていない。それらについては各種サブスク等で聞いていただきたい。

2.なぜ「愛」では足りないのか

 筆者は星野が「愛」という概念を重要視していると論じた。そして星野は「愛」という語を歌詞の中に多用している。それなのに筆者は、星野を代表する言葉からわざわざ「愛」を除外している。その理由は二つある。
 一つは、「愛」は星野を代表すると言うにはあまりに陳腐な語であるということである。「愛」という語が含まれている歌は数え切れぬほどあり、他のラブソングシンガーと比較して星野が突出して「愛」という語に執着している様子は見られない。
 二つ目は、星野は愛について「愛」より詳しい説明をしようとしているということである。「Dead Leaf」では次のように言っている。

これはさ 愛だ
ああ もっと似合った
言葉がいいけど
一番 近くて古い言葉

星野源-Dead Leaf

 この歌詞では一見星野は「愛」という語に落ち着いたように見えるが、この歌を締める歌詞を見るに、そうではないと筆者は考える。

いつまでも 落ちないな
あの枝で 枯れた葉

星野源-Dead Leaf

 この「枯れた葉」というのは、「愛という言葉」の比喩であると考えられる。つまり星野は暫定的に「愛」という語を肯定してはいるが、それは枯れている、つまり使い古されたものであると捉えているのである。星野はあくまで、「愛」という語よりもっと「それ」に似合った言葉を探しているのである。
 以上のように、「愛」という語が陳腐であること、また星野がそれに変わる言葉を模索していることから、本記事では星野を代表する言葉は「愛」ではないと主張する。

3-1.「くだらなさ」について

 「くだらなさ」は、星野が初期から扱っている概念である。1stシングル収録曲「くだらないの中に」では、星野は以下のように言う。

くだらないの中に愛が
人は笑うように生きる

星野源-くだらないの中に

 ここで星野は、愛はくだらない物事の中に生まれると言っている。
 この考えは最近になっても変わることなく、むしろ強化され、「おともだち」で触れられている。

どこまでいけるかわからないのに
心躍り 続けてきたんだ
闇の中も くだらない話だけが
僕ら 続く理由だから

星野源-おともだち

 くだらない物事の中から愛が生まれるだけでなく、それだけが私たちが続く理由だという主張がなされている。つまり、「くだらなさ」が私たちに必要で「意味」に対置されるような概念であるということである。
 しかし、「くだらない」という語は一般にも価値や意味がないという意味の語である。だから、「意味」がないとする星野が「くだらなさ」という語をそれに対置する形で使用するのは、ある種当然のことである。しかし筆者があえて星野を代表する語として取り扱うのは、星野のいう「くだらなさ」には、独自のニュアンスが含まれているからである。

 「くせのうた」では、「くだらなさ」について次のように論じている。

同じような 記憶がある
同じような 日々を生きている
寂しいと思うには
僕はあまりに くだらない

星野源-くせのうた

 この歌詞は、その前にある同じメロディとの対比として見なければならない。

同じような 顔してる
同じような 背や声がある
知りたいと 思うには
全部違うと 知ることだ

星野源-くだらない

 「全部違うと知ることだ」というのは、前回論じたような現実や真なる世界ではなくそれぞれの世界に生きるという姿勢のことだろう。

 ここで少し寄り道をする。前回筆者は星野が共通の真なる世界でなく、それぞれの嘘の世界を生きることを説いたと言った。ここで星野のことを、その生き方のことを、寂しいだろうと感じた人もいるのではないだろうか。共感されることもなく、ひとつのものを指差すこともできず、ただ孤独に生きていく。このことについては、星野も触れている。

もしもの時は
側に誰もいないよ わかるだろう
今まで会った人や
残してほしい つたない記憶も

星野源-もしも


 しかし「くせのうた」のこの歌詞を見るに、どれだけ孤独であっても寂しいと思うことはできない、又はしないと言っている。では、星野は孤独に生きることのどこに希望を抱いているのか。それは、1stアルバム第一曲目「ばらばら」ですでに触れられている。

ぼくの中の世界 あなたの世界
あの世界とこの世界
重なりあったところに
たったひとつのものが
あるんだ

星野源-ばらばら

 また、「さらしもの」でも孤独に生きることについて触れられている。

もしかすると孤独はひとりではないって

…みえる!

星野源-さらしもの

 星野は、嘘や妄想の世界に生きろというが、それは誰とも共通する部分がない生き方ではないのである。どれだけ孤独に生きていても他人と重なり合う部分があり、それこそが重要なのだ。

くだらない心の上 家を建てよう
繰り返し 建て直し
アルファルトはいらないよ ああ
ばかなうた 歌いながら一緒に揺れようぜ

星野源-ばかのうた

 星野は、嘘や妄想や愛といった孤独の世界で生きることを説きながら、本当に価値があるのはその中で他人と重なり合う部分であり、それを「くだらないもの」と言っているのである。


3-2.「海」について

 星野は「海」や「川」、「雨」又は「涙」など、水について詞の中で多く触れている。その中でも、特に興味深く感じられるのは「海」について歌う時である。

全部嘘さ 汗の混じった
妄想が作る川 海は続く

星野源-パロディ

赤青黄色の嘘が海になる
悲しみが浮かぶ港 寝ると舟のよう

星野源-乱視

 星野は嘘や妄想や愛の世界が行き着く先を「海」としている。先ほどの議論から連続して考えれば、それぞれの嘘が重なり合った部分のことを海と比喩しているのではないかと考えられるが、ここには議論の余地があるだろう。一応、その説を補強する材料としては次のような歌詞がある。

微量の夢 潮騒ぎが
命を 少し繋いだんだ

星野源-しかたなく踊る

波に揺れるざらめ
闇を絡め海に溶け出し
針は進んだ

星野源-しかたなく踊る

どこまで行けるだろう
夢の中のような
乱視の海は続く 今も先の朝も

星野源-乱視

迷いながら 笑いながら
海になるんだな
僕らは消える愛だ

星野源-Snow Men

 この辺りの歌詞からは、星野が「海」を私たちを時間的に繋ぎ止めてくれる存在であると捉えていることが分かる。最後の「Snow Men」については、前回同様終わりがあるということは続きがあるという論理である。星野は私たちを繋ぎ止めてくれるのは嘘や妄想の世界だといっていた。そして海が私たちを繋いでくれるとすれば、それは海が嘘の集合体であるからである、と考えられる。

 しかし、「海は嘘の重なり合った部分のことなのか」という議論はひとまず置いておく。なぜなら、星野の言う「海」の概念を論じる上でもっとも重要なのは「Soul」の次の歌詞であると筆者は考えるからである。

海を見た日の 神は幼い

星野源-Soul

 この歌詞からは、「海」が星野にとって原初より存在するものであると捉えられていることが分かる。私たちにとって最も古いものとは、私たちにとって一つのルーツであり、共通しているものである。

 筆者はここに、星野の葛藤を見出す。3-1でも論じたように、星野は嘘や妄想や愛といった孤独の世界で生きることを説きながら、本当に価値があるのはその中で他人と重なり合う部分であると言った。しかし、その重なり合う部分が私たちに共通しているものだというなら、それを探す事は結局、真なる世界を志向することに他ならないのではないのか。実際「アイデア」では、それまでには(筆者には)考えられなかったことを星野は言う。

鶏の歌声も
線路 風の話し声も
全てはモノラルのメロディ

星野源-アイデア

モノラルのメロディとは、要するに一つのスピーカーから鳴らされている曲のことである。「全てはモノラルのメロディ」と歌う星野は、鶏の歌声も線路や風も、私たちは同一のものから発現したものを捉えていると言っている、つまり本当の世界の実在を認めているということになる。
 
 星野は現実や真なる世界を追求することへの絶望から、嘘や妄想や愛の世界で生きることを説いた。その中で他人と重なり合うものを「くだらない」ものとして、高い価値を見出した。しかし結果、すべての人に共通するものという存在とぶつかっている。そのことによって、真なる世界の存在をどう扱うか、今の星野は帰路に立たされているように感じる。

自分だけ見えるものと
大勢で見る世界の 
どちらが嘘か選べばいい
君はどちらをゆく
ぼくは真ん中をゆく

星野源-夢の外へ

 星野は「夢の外へ」でこのように言うが、「真ん中」とは何なのか。これについては、まだ答えが出ていないというのが筆者の考えである。ここまで精緻に順序立てて作詞をしていた分、この「真ん中をゆく」という歌詞はちゃぶ台を返しているように見えなくもないと思えてしまう。

 私が星野源に見出すこの問題について、何か星野が解答を提示してくれることを、一星野源ファンとして期待している。

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