星野源の思想(結局 意味なんかないさ 暮らしがあるだけ って何?)
星野源の曲の中で最も有名なものは「恋」だろう。この曲は実写化ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」と共に大ヒットし、「恋ダンス」と共に世間で流れに流れたので、特に星野源に詳しくない人でも歌詞をある程度覚えているのではないだろうか。しかし、その内容は意外と難解なものを含む。
星野は意味はなく暮らしがあるだけというが、それはどういうことだろう。暮らしとは何で、意味とは何だろう。それを考えることは意味を考えることで、この思考自体破綻しているのだろうか。だとすると、星野は単に虚無主義でしかも反知性主義なのだろうか。筆者の考えでは、そうではない。
この記事では、YouTubeにミュージックビデオがアップロードされている楽曲から、星野の言う「意味」と「暮らし」の、虚無主義的でも反知性主義的でもない意味について考えていく。
まず「日常」からは、星野の「意味」を必要のないものとする姿勢が見て取れる。同曲内で「理由」や「共感」も要らないとしていることから、それらの語に共通するものを見出し推察すれば、星野にとって「意味」は「自分だけでなく他人にも共通しているもの」というような性質を持っているのではないかと考えられる。
「知らない」では、星野が「意味」を超越したものを伝える手段としての歌を目指していることが分かる。「自分だけでなく他人にも共通しているもの」を歌うのではないなら、何が歌えるのか。それが星野の「知らない」で示した論点だ。そして筆者が考えるに、これは長い間星野が扱っていた重要なテーマである。
この論点を詳しく取り扱う前に、星野が「自分だけでなく他人にも共通しているもの」をどのように捉えているかについて、「知らない」以前の楽曲の歌詞から見ていく。
星野は、「フィルム」で現実に価値を見出していない。現実世界という万人に共通するとして扱われるものの代表ですら、星野はどこまで真実であるのか分からないと言う。「自分だけでなく他人にも共通するもの」など本当にあるのかどうかすらあやしい世の中で本当に大切なことは、現実を正しく見据えることでなく、自分自身で自分の世界を作ることであると星野は言っている。
星野は「夢の外へ」でも同様に、現実は光を映してくれるが、そのためには自分自身の妄想、つまり自分だけの世界を現実に持ち出さねばならないと言っている。星野はここでも、現実世界より嘘や妄想の方に重きを置いている。
さて、もとの論点に戻ると、「化物」で星野は「意味」を超えて何かを歌えるかという論点を続けて扱っている。「化物」を発表した時点の星野は自分が「意味」を超えたものを歌えていないことに自覚的であり、せめてそのことについて論じることを続けながら、それを乗り越えることは明日の自分に託している。
「地獄でなぜ悪い」も「フィルム」や「夢の外へ」と同様に嘘や妄想の世界の価値について語る歌であるが、この曲では一つ段階が進んでいる。この曲で星野は、改めて嘘や妄想の価値を論ずると同時に、自分の曲の届く範囲について一種の諦めを表明する。それは、意味を超えた歌を歌うためには、現実ではなく嘘や妄想を用いて自分自身の世界を作ることが必要であり、自分はその立場を動けないため、同様に嘘や妄想の世界に生きるものにしか自分の歌は届かないという諦めだ。
ここから星野は、嘘や妄想の世界に生きる人々に向けて歌を作ると同時に、嘘や妄想の世界を生きることこそ価値あるものだと人々に知らせるような作曲に進んだように思われる。
「Crazy Crazy」も、その姿勢を共有しようとする歌と言える。意味のないことを私たちにも求める歌だ。
一旦この「Crazy Crazy」までの「意味」を超えて何が歌えるのかという問いについての星野の態度をまとめる。要するに、現実や真なる世界ではなく、自分だけが持っている嘘や妄想の世界を互いに出し合う場を作ることが、歌にできることだという結論である。
しかし、具体的に嘘や妄想の世界とはなんなのか。星野はここからその点についても切り込む必要があった。また、ここで星野は「なぜ現実ではなく嘘や妄想の世界を生きるのか」という問いに向かっていく。その中で星野が特に目をつけたのは「時」という概念である。
「SUN」「Snow Men」「時よ」、ミュージックビデオ発表曲では三曲続けて、私たちがいつか終わりに向かい死に至る存在であることを歌っている。その中で、「時よ」の中に次のような一節が含まれていることは論ずる価値がある。
ここで分かることは、星野は私たちに終わりがあるということを強く主張すると共に、そこに絶望するのではなく、終わりがあるということは続きがあるということだと希望的に捉えているということだ。
私たちは時に乗り、続いていく。そしてその時を繋ぎ止めているのは、恋だと言っている。
ここでの恋という言葉は、嘘や妄想の世界と似たような個人的な概念であると筆者は考える。つまり、全てを繋ぎ止めるのが嘘や妄想の世界に他ならないから、我々は嘘や妄想の世界に生きるのである。
星野は現実ではなく嘘や妄想の世界に生きる人に歌を届けると共に、その生の素晴らしさを伝えるために歌を歌っていたと筆者は論じた。そして嘘や妄想の世界とは、具体的には愛のことであった。だから、星野の歌が行き着いたテーマは愛だったのである。
そしてここで、「恋」が発表される。
この暮らしとは、愛と時が含まれた語であると筆者は考える。
つまり、星野の言う意味はなく暮らしがある状況とは、真の世界を追い求めるのではなく、人を愛し、その愛の中で生を続けることであると筆者は考えている。
星野はここから、多くの愛についての詞を書く。それらも非常に興味深いものが多いが、複雑で、この記事のテーマからはひとまず外れるため、いずれの機会にするとして好きな詞を適当に引用してこの記事は終わりとする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?