お風呂
あー、お風呂に入らなくては。
気が向かない理由で
言葉拾いをする。
リビング(と同じ階にお風呂がある)
に降り立つことは
冷たい湖につま先を浸けるようだ。
息ができない
生を感じられない世界に
向かうのと同じことだ。
ベッドのあるこの部屋には
私の生がある
言葉を拾う許しがある
生活に足を浸けることが
怖いなんて
人間と言ってよいのでしょうか?
社会の上に生活があるって
この世界はいつからそうなのだろう
「わたし」の足元に
生活があってほしい。
それを夢見ているのは
可笑しいでしょうか?
ベッドの上で言葉を拾うとき
私が温かいことを知る。
服を着ていることを知る。
自分であることを知る。
自分の冷静さを知る。
いや、冷静ではないのかも知れない。
興奮状態なのかも知れない。
どちらにせよ、
指先まで
血が巡っているのだと思う。
あー、お風呂に入らなければ。
それに一日でも入らなければ
私の肉体が生きる活動をしている
と、分かることが皮肉で仕方がない。
そもそもそれも社会性だ。
きっとそれをしなくとも
肉体は滅びるまで生き続けるのに
ああ。憎たらしい。
どうするか、どうしたいか、
自分で決めて生きればいい。
それに憧れて駄文を打つ。