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「エコ不安症」との付き合い方。希望に救われ、時に絶望にも救われるという話。


こんにちは!

環境問題に向き合いはじめて約一年が経ちました、フキです。

みなさん「エコ不安症」ってご存知ですか?

エコ不安症(Eco Anxiety)「地球環境の危機的状況に対する、慢性的な強い恐怖心」のことで、不安感や喪失感、無力感、悲嘆、怒り、絶望感、罪悪感、ふがいなさなどを払拭できず、うつや不眠症に陥ることもある。

引用: 外部サイト: 気候変動の影響は、私たちのメンタル面にも――人々をむしばむ「エコ不安症」とは?


私自身、過去に2度の「エコ不安症」になり、悩まされてきました。

今回は、そんな私の体験談とともに、私流の、この症状との付き合い方・解消の仕方をご紹介しようと思います。



〜結論〜

「エコ不安症」になってしまった時、私は、

自分の「無力さ」と「無力でない」ことの両方に救われました。


とても奇妙に聞こえるかも知れませんが、希望にも絶望にも救われたという話です。このことについて詳しく述べていきます。


過去2度の「エコ不安症」に悩んだ私の歴史

はじめに、私が環境問題について関心を持ち、行動してきた経緯をご説明します。

簡単に表すとこんな感じ↓

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とあるおじいさんとの出会い

私が環境問題について関心を持ちはじめたのは、2019年の6月に出会った、ベルギー人のおじいさんがきっかけです。

彼は、温暖化に加担したくないという理由で、“生涯飛行機には乗らない”と決断していた方でした。


温暖化をはじめとした環境問題について、個人が及ぼす影響のことはあまり重要視していなかった私ですが、実際、そのように自分の人生の可能性をも捧げて未来の地球に貢献しようとしている人の存在を目の前で見て、「私にもできることがあるのだ」と気付かされました。

そして帰国後から、環境問題について一層よく調べて、できることを探して、行動するようになりました。


知れば知るほど「エコ不安症」に…

環境問題について、調べれば調べるほどネガティブで絶望的な現状を知らされた私は、だんだんと憂鬱になり、精神的に落ち込み、「エコ不安症」になってゆきました。

気温の上昇のせいでサンゴ礁が死んでいる。

南極の氷がかつてないスピードで溶けている。

プラゴミのせいで海の生物が死んでいる。

気温状況が2℃に達したら引き返せない負のスパイラルが起き、ここ地球は私の人生さえまっとうできない危機的状況になるかもしれない。

そしてそれは全て人間が引き起こしたことだ。

生きていること自体に罪悪感を抱くようになり、未来に希望が見出せなくなりました。


そんな時の救い①「私は無力ではない」

そんな時、私の救いになったくれたのは、環境問題のことで繋がっている、インスタグラムの仲間たちの存在でした。

この問題に関して、同じように懸念している人が沢山いる。そしてみんな、できるところから行動している。お互いに情報交換し合い、励まし合い、そういう交流の中から「希望」を見出してきました。

問題はあまりにも大きいけど、一人のやることは小さく見えるけれど、やっぱり、自分は絶対に「無力ではない」んだ。それが、エコ不安症から抜け出す大きな力になっていたと思います。


ふたたび「エコ不安症」になる

「エコ不安症」の第2波が訪れたのは、その約半年後。まあ、最近のことなのですが(笑)

簡単に言うと、情報を入れるのに疲れました。行動するのに疲れました。そしてなお環境志向に大きく舵が取られていない国の現状に疲れました。もう嫌になった。

そう、はっきり言って、何もかもが嫌になりました。

私がちょっとの節電をして何になる?

私がちまちまゴミ拾いして何になる?

私が環境問題に関して家族と討論して疲労して世界の何が救われる?

微力すぎる!!身近な家族や友達の行動さえ変えられない私のやることが!!!

このとき、以前の「エコ不安症」のときには効いた「希望を見出す」というやり方が完全に効かなくなりました。完全に疲れ切っていたし、精神的にやさぐれてもいたから…。


救い②「自分は無力だ」

ここで私は発想の転換をして、「自分の無力さ」に思いっきり浸ることにしました。

小さな自我で悩んでいた私は、そもそものこの問題の「スケールの大きさ」に着目して、よく考えてみたんです。

気候変動は地上の二酸化炭素量が多くなっていることにより引き起こされている、ということは世界の共通認識ですが、ではなぜ二酸化炭素量が多くなっているかというと、人間生活の「エネルギー源」が大きく「化石燃料」に依存しているのが大きな要因ですね。

しかしそれは、よく考えると、私たちの「選択」であるというよりはむしろ「人類の進化」の歴史でもあるんです。

旧石器時代から主なエネルギー源がずっとバイオマスでしかなかった人類が、石炭や石油といった化石燃料を見つけ、19世紀にエネルギー革命が起き、それは産業革命に繋がり、人類は飛躍的な発展を遂げました。

つまり二酸化炭素量の増大という問題の要点は、限りなく「歴史」の話であり、人類の「進化」の話なんです。(もちろん改善点は山ほどあり、それは私たちにとっての課題ではあるのですが…)

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だから、

人間の文明のあり方がいけないんだ…。なのに何もできない私は無力だ…。未来に希望なんてない…。

って、このすごく大きな問題を、自分のレベルに置き換えて頭を悩まし、人生の時間を無駄にすることは、ある意味おこがましいことなんじゃないか?とすら考えるようになりました。

私にもっと力があったら、地球は救われるのに…って悩むのもいいけど、じゃあ、私が人類のここまでの歴史を変えられる?タイムワープでもして、人類の石炭の発見を食い止める?それか、私が今、日本の総理大臣だったらよかった?アメリカの大統領だったらよかった?それって、無理でしょ!!!!(笑)

私は、環境大臣にも総理大臣にもなれないし、過去にも未来にも行けない。なら、私が「微力」なのは「当たり前」なんだってば(笑)

まして私が人生に対して絶望しようとしまいと、世界はなんら変わらない。

これは私にとって現実逃避というよりも、現状の「受け入れ」でした。

しかしそれが、不思議と、私の心の安定に大きく役立ったんです。


結局私は、「絶望」によく似た「受け入れ」に救われた。それは逆説的に「希望」であった。

こんなふうに考えて私は、必要以上に罪悪感を持ったり責任感を持ったりするのをやめて、「エコ不安症」をゆっくりと乗り越えました。

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結局私は、「絶望」によく似た「受け入れ」に救われたんです。

…でもこのままだと自分、アカンだろ。現状に甘んじていては。今までがんばってきたことが無駄になるんじゃない?前の生活に戻れないんじゃない…?

という一抹の不安は確かにありました。でも大丈夫でした。

私が絶望したりしなかったり、ちっぽけな自我にジタバタともがいているその瞬間にも、ふとSNSを覗けば、環境問題を叫び、活動している人が世界には依然としてたくさんいました。

自分は確かに絶望している、でも、そういう人の存在をふと思い出す時、どうせ絶望しているならば、やっぱり、自分も「そっち側にいたい」、「行動する側でありたい」。そういう気持ちが、ある日突然、ちゃんと湧いてきたんです。

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それは、「希望」に満ちた人、というわけではなく「確かな行動をひとつずつ重ねている人」。絶望とか希望を通り越した、「行動している」ことの希望。

それは一年前に私がベルギーでおじいさんと出会ったときに感じたのと同じ、とてもピュアな衝動でした。

ゆらゆらとして、でも、心が落ち着いたその日、ちゃんとここに戻ってこれました。


まとめ

あらゆる問題について、「心」と向き合い、ケアしていくことはとても難しいことだと思います。まして自己否定に繋がりやすい「環境問題」に関しては、ことに難しい。

しかし結局、この大きな問題については、「私は微力すぎるので、私が悩んだところで何も解決されない」ということと、「でもやっぱり、無力ではない。」

こういう振り幅を持って付き合っていくしかないのだと思います。そう、「振り幅」です。ちょっとずつ、ちょっとずつ。揺られながら、前に進むしかない…。

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「エコ不安症」と戦うあなたへ

希望を見出しましょう。それがダメだったら絶望に寄り添ってもいい。

そしていつしか心が戻ってきたら、「意味のある行動」をひとつずつ置いていきましょう。

一日一個でいい。自分の心を殺さなくていい。そして疲れた時には休んでいい、絶望したっていい。

「意味」とか「希望」に寄り添いたい時、それが、一番に「意味のあること」なんだと思います。



以上です。

最後まで読んでくれてありがとうございました^_^


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