見出し画像

年末や年始の日誌

12月30日

23:44
同じ作家の書いたものを、前とは随分違う感触で受け取っていることに気づく。
言葉を発するのも受け取るのも、踊りや絵のように訓練がいる。ものごころついた時にはもう言葉を話しているしそんなに意識しなくても使えているような気がしているからつい自分の手のなかにすでにあるもののように思っているけれど、そうではない。ほかのあらゆる道具や手段とおなじように。
言葉はなまものなのだし、言葉をにふれる感覚は絶えず更新して、停滞させてはいけない。

22:50
昨日は久しぶりにJとPに会えた。アイスランドのビエンナーレぶりだから、2年にもなる。一ヶ月共同生活をしたからなのか、一緒に作った作品を膨らませて新しい作品にしている彼らの活躍をFacebookで見ていたからなのか、久しぶりという気がしない。
前よりフランス語が上達したね、と言ってくれた。普通の70倍くらいかかっていることは承知だが、嬉しく受け取る。
Jは彼の瞳が示すように、澄み切ってきちっとしている。真摯でほんのり上品な色気。

年末という気がしないけれど、去年もそうだった。
去年は年越しにうどんを踏んだようなので、今年もそうする。ちょうど海老が残っているしね。わかめもお揚げもある。
年末という気はしていないのだけれど、せっかくの区切りなので来年の目標などを決めてみる。
自分が豊かになれるであろうことに意識的に時間と神経を使う。
…かな。


1月1日

読んだ。
優しい地獄(下)|イリナ・グリゴレ(水牛のように) 
私は元社会主義国からきた一員として、フレームに入らない人々、はぐれるという踊りを考えて、他の人々から暴力を受け、最後に舞台から投げられるというシーンを作った。そしたら、泯さんが私たちのパフォーマンスを見て「最後に立って笑うのよ」と言われた。そうだ、人生で最高のアドバイスを受けた。
高嶺格さんの『melody cup』のことを思い出した。
舞台に立って演じることを普段はしていない子どもを役者としている。
子どもたちは憤怒や慟哭など、日常ではなかなか見ないほど振り切れた感情を舞台上で見せたので、その圧力にこちらの心臓がわなわなと震えるくらいだった。
激しく針を打ち込まれながらかろうじて最後まで見終えると、最後に子どもたちは日常に戻って輝くような笑顔で舞台挨拶をした。大役を終えてみんなほっとして、それぞれ自分に戻っている姿。そっか、ここまでが作品だったんだなと。
その作品は途中に観客を巻き込むような仕掛けもあった。見る側と見られる側の境界、舞台という「ここは非日常です」という設定のある場所と、それを日常を引きずりながら見ている客席の境を一瞬で取り払うような瞬間。だから殊更にそういう感じがしたんだろう。
ちいさな仕掛けで、状況をひっくり返したりひとの心理を掴むスピード、その嗅覚にびっくりした。また高嶺さんがつくる舞台を見たいけれど、あまり頻繁に舞台をつくる人でもないのかもしれない。

『melody cup』についてはこちらにも
破裂の瞬間、Melody Cupのこと 
『Melody Cup』 高嶺格 


新年があけた。
昨日の夜に、少し言葉を間違って傷つけてしまったことが、取り返しがつかないことにならなくてよかった。表現し切ってもなお傷つけるなら仕方がなかったと思えるけれど、自分の感じていることを掴みかねて間違った言葉を使ってしまった自覚があったので気になっていた。
何をしようと、しまいと、本人がそれで満足なら構わない。でも数年経ったときにやっぱり悔いてほしくない。私のように自分のせいで絶たれてしまうかもしれないわけじゃないのを毎日見ているから。
それに私もその先を見たい。


1月2日

新年2日目。
年末に掃除し残した棚のものを整理し、埃を拭う。いつか使うかもしれないとつい取っておいたものを捨てる。以前よりも罪悪感が少ないのは、いくら大事にとっておいても、使いもせずただ埃をかぶせておくことのほうがひどいことだ、と思うようになったからかもしれない。それに「捨てる」といってもゴミ箱に捨てるのではなく、譲る。いらなくなったものを引き取ってくれる場所があることも、手放す気持ちを軽くさせる。
しかし、やっぱりフランスの家はちゃんと断熱しないとカビるな…やれやれ。

Sが久しぶりにブログを書いている。何年ぶりか。
自分が大事だと思う、どうしても伝えたいことを書いているとのことだが、そもそもの前提を説明したり、輻輳的に色んな部分が絡まりあっているので前後関係が固定される文章というものに落とし込むのに時間がかかる、と言う。わたしも文章を書くのに時間がかかる方だし、立体的な頭の中を平たい文章にすることに苦労するからその気持はよく分かる。
直接話すことができればそこに注釈を挟んだり、いくらでも後戻りして説明したり、訂正したりできて余程楽だろう。
家でいつもで話すことをときどきラジオ放送とかした方が、少しずつでも伝わるんじゃないのかな、とも思うがいっぽうで、吟味できずに発してしまったことで誤解を生むようなこともしたくないらしい。
それもよく分かる。
Sと一緒に生活する中でわたしは自分というものを前よりはただそのものとして捉えるようになった。話すこともそうだし、ものごとに対する姿勢を見たり、つくるものに触れたり、一緒に舞台をつくったりする中で。
「ありのまま」と言うとなんだか悪い部分も良い部分も認めましょう、というような感触に繋がってきそうなのだが私が感じているのはもっと、良し悪しのような二元的な世界を乗り越えた今の瞬間と自分がどういうふうに触れているか、というようなことで、全部が入り混じったような自分がただこちら側にはあるだけのような感じ。
自分の特質のようなことも随分と分かってきたし、それは何かと並べたり並べられなかったりするものでもない、ただ、「そうである」と受け止めることからしか始まらない、見るべきものを見ながら生きようとするならばシビアに、ニュートラルにそれを見つめて考えなければ、と思えるようにもなってきた。


1月4日

オンラインクラス について秋くらいから色々と試行錯誤していたのだけれど、1月からしばらく、時間を短縮してみようと思う。1時間くらい体に集中してみることが楽しいことは間違いないのだけれど、少し時間的な敷居を下げて、色んなひとにも参加してみてほしいから。ストレッチは持続が大事なのに、時間が長いので持続しづらいのであれば本末転倒だしね…。
気軽に身を任せていたらいつのまにか柔軟性が出たり、不調が少し変わってくる、体についての発見が楽しくなってゆくようなクラスをしていきたい。


1月8日

ほんとうにちょっと用事が立て込むだけで、毎日のメモさえとれなくなる。ひとつひとつのことに必要以上の時間をかけすぎるのは分かっているので、そしてそういう性質を治すのはなかなか困難そう。だからほんとうに大事で必要なことだけを選んでいけるようにするほうが近道かもしれない。
そうすんなりいくわけではないけれど。

今日は オンラインクラス でマッサージの回をしたのだけれど、ずいぶんどうしよか悩んだけれど、やっぱり一番自分が大事だと思っていることをこそ伝えたいから、じっくりと地道で、でも確かに手応えのあるようなクラスにしていこうと思う。
伝えたいことがたくさんあってついあれもこれも、それからそれも、と混雑した説明になってしまうので、落ち着こう。一日で全部言わなくてもいい。


自分の中で有機的に繋がっていることでも、人に説明するときにはもう少し平らにならさないといけない。
有機的で、立体的なまま、温度とか感触が伝わるといいなと願ってか、私は整理して人に話すということをつい避ける傾向にある。苦手ではあるができないわけはないのに、どうしてもそれを避けるのは、自分の中にあるものをぺったんこにしたくない、いくら分かりやすく伝わりやすくなるからといって、複雑で豊かなものを落としたくないという意識がありそうだ。
ただ薄っぺらいものにせずとも、伝えるすべはあるはず。
そういうことばを使っているひとを知らないわけじゃないもの。

ブログを読んでくださって、嬉しいです!頂いたサポートはこれからも考え続けたり、つくりつづけたりする基盤となるようなことにあてさせていただきます。