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生えてくると思っていた——性自認にまつわるひとりずもうの記録 2/2


9.転機

 男性器が生えてくるという強迫観念を、手放す……とまではいかなくとも、いっこうに様相の変わらない性器のようすにひとまず安心してよさそうだと思えたのは、高校2年生のときになってようやくだった。

 その年にはじめて彼氏ができた。彼との恋愛を通して女性器を使った性行為ができると確認できたのはとても大きなことだった。わたしの中には男性の芽がひそんでいるかもしれず、それでも恋愛対象である男性とはどうやらセックスができるらしい。そのことはわたしに大きな安堵をもたらした。妊娠はできないかもしれないが、当面それは問題にならないだろう。ひとまずは男性と性交渉を含む恋愛ができるのだ。
 一時は絶望的とあきらめていたことだから、このときの安堵と歓喜はとても言葉では言い表せないほどのものがあった。

 男と女の間で長らく混乱し、途方に暮れた心をわきに置いて、ひとまずは積極的に恋愛に取り組むことができた。とりわけセックスにおいてわたしは過剰なまでに少女らしく振る舞った。女として性交に取り組むことがわたしを女として留め置いてくれると強く信じた。つまりまだ女であることに疑念を抱いたままだった。

 トーマはそこにいた。いつでもわたしの肩に手を置ける位置に静かに控えていた。

 本当には女でない、という根づよい疑念はわたしをより享楽的な恋愛に駆り立てた。正体不明の肉体を乱雑に扱う満足には昏いよろこびがあった。10歳で芽生えた性に関する混乱は、倍の歳になっても基本的には同じ形で保存されていた。


10.講義

 21歳のときに大学で性自認に関する特別講義を受けた。講師ははじめに、性というのは男と女の2つだけではないどころか4つや5つよりももっともっと多くの種類があることを基礎的な知識として講義した。
 2009年とかそれくらいの時期のレクチャーであるため、2021年現在得られる知見とくらべるとずれのある部分もあるように思う。が、当時のわたしはアゴがはずれて机に落ちるくらい驚いた。
 講師による「基礎的な性の知識」とはこのようなものであった。

 一口に性と言っても、性には身体の性(生まれたときの性)・心の性(自分で思う性。性自認)・性的指向(すきになる性)・よそおいの性(服装やメイクなど)がある。それらの組み合わせによって実はものすごく多様な性が存在する。

 たとえば、女に生まれて(身体の性:女)、女であることに違和感をもたず(心の性:女)、女をすきになる(性的指向:女)。こういう人がレズビアンを自認するというのは、わかる人も多いだろう。
 しかしこんな場合もある。男に生まれ(身体の性:男)、男であることに強い違和感を持ち、女性への性転換手術を希望しており(心の性:女)、女性を好きになる(性的指向:女)人がいる。この人は周りからすれば女をすきになる男(異性愛者)であるように映るかもしれない。が、本人は女として女を好きであるのでレズビアンを自認している可能性が高い。

 他にもさまざまなパターンがある。人々がそう思い込みがちなように、異性装の人が同性を恋愛対象とするとは限らない。

 性は人の数だけあると言っても大げさではなく、そして多くの場合、目で見てわかるものではない。

 これを聞いたときの驚きは、他ならぬわたし自身の画一的な性への認識を暴き出した。

 生まれたときの身体の性に一片の疑問も持たず生きる女、あるいは男が普通なのだと思っていた。
 そこから外れることはすべて異端で、わたしは異端側の人間だとどこか自分を諦めて卑下し、粗末に扱ってきた。同時に、同じく異端側の(とされる)人びとについても、粗末に扱われてしかたのないものと認識していたことになるだろう。自分を卑下することの危険はそういうところにある。

 しかしわたしの性、つまりは女の身体に生まれ、女であることにそれなりの違和感をおぼえ、男性器の生えてくる妄想にとりつかれながら生きてきたわたしの不安定な性は、それはそれで無数にあるセクシュアリティのパターンのひとつに過ぎないかもしれないと、この新しい考えかたは提示してきた。

 もしそうだとすれば、本当はマジョリティなど存在せず、女に生まれて女として生き男をすきになることや男に生まれて男として生き女をすきになることですら個々のセクシュアリティに過ぎない。わたしのと同様に。というかわたしだって外から見える現象だけで言えば女に生まれて男をすきになり男とセックスしているのだ、当たり前にシスジェンダーの異性愛者って感じで認識されているだろう。そうやって大きなマルの中に乱暴に投げ込まれることにわたしが違和感をおぼえるように、わたしが今まで当たり前に「普通の」女の子、男の子として認識してきた人たちだって、本当にそうとはまったく限らないのである。というかおよそ人間として生きていれば、自分が女であること、男であること、あるいはそのどちらでもないことについて何事も考えない人などほとんど皆無ではないか?

 このとき、ある意味ではわたしの存在を支えてきた「異端」としてのアイデンティティはがらがらと崩れ去った。わたしは誰もと違うと同時に、誰もと同じであった。この衝撃はわたしをひとりの迷える丸裸の人間に戻した。心がひりひりと痛んだが、なぜ痛むのかはわからなかった。


11.可能性

 講義はさらに続いた。講師の個人的な体験の語りが講義のベースだった。講師はトランス男性であり、ホルモン投与と性転換手術を受けたという。彼は女性の体に生まれて、しかし幼いころより自分は男性であると確信していた。与えられた制服(スカート)を身につけた自身への違和感、ふくらんでゆく乳房への嫌悪、女のしるしといわれる月経に直面するつらさ……。
 講師が語るそれらの経験談に身を乗り出して聴き入った。わたしにとってまったく他人事とは思えなかった。最初、これはわたしの話でもあるかもしれないと思って聴いていたくらいだ。

 しかし話が進むにつれてそうではなくなった。講師が感じていた「間違った身体の性で生まれてきてしまった」感覚は激烈であり、「例えるならば、鏡に映る自分は爬虫類の身体をしているのに、周りからは人間に見えているらしい。そういう感じ」と語っていた。
 これを聴いてわたしは、それほど辛いことがこの世にあるのか……とショックを受け、思春期の人間がたったひとりでそれに対峙していたことを想像してみてきつすぎた。同時に、わたしはそこまで激しい嫌悪感に悩まされたことはなかったなと思った。

 小さな違和感も違和感だし、違和感が強いほうがえらいわけではない。わたしのずっと抱きつづけてきた、与えられた性に対する違和感もちゃんと違和感である。けれども、それとは別に、どうやらわたしはトランスではないらしい。女性の部位を使っての性交をほとんど抵抗なく楽しめている時点で、どうやら間違いなく。

 力が抜けた。このときになって気づいたが、わたしは自らがトランス男性である可能性を考えていたのだ。だからトランス男性が講師をつとめる講義ときいて、単位が取得できるわけでもないのに出席した。熱心な学生でもないのに聴講なんて。
 わたしは自分が何者であるのか、そのうちの可能性のひとつを失った。失うと同時に、「何者か」に属したくて仕方ないという気持ちに突き動かされていた自分を知り、恥じた。


12.自覚

 そのあともしばらく講義できいたことを考えつづけた。高校までの授業でだれも教えてくれなかったことだったのだ。そしてもちろん(ここが重要なのだ)、自分で学ぼうとしなかったことだ。調べよう、学ぼうとおもえばわたしにはいくつか手段があったはずだ。でもそうしないできた。

 中学生のころ、「正しい」女性器のかたちを知りたくて夜な夜な父のWindows95でインターネット検索を何度も試した。家の電話代が跳ね上がり大変怒られた(当時のインターネットは固定電話回線を使うものだった)。あのときは手段こそつたなかったものの、多分ほんとうに切実だったのだ(当時のインターネットは重く、20分かけて上からじわじわ表示された画像は無修正をうたっていたのにモザイクがかかっていた)。
 しかし時が経つにつれ切実さは失われ、「そうせずにはいられない」という思いに突き動かされて性の情報を探索することはなくなった。そのことがわたしの内面に起きたことをよく物語っている気がした。

 わたしには多分、男性と性交を果たした17歳の時点でどうやらこの身体が普通に女のそれであることはかなりしっかりとわかっていたのだと思う。これからもペニスは生えてこないしトーマはわたしの頭の中にだけいて身体の中にはいない。でも多感な時期を通してずっと揺れるわたしでいたものだから、女であることに腹を括れなかった。それで、男性化に怯え揺れるわたしを継続することにした。男と女のはざまに身を置き続けることに決めた。どっちつかずの自分を好きになれないままに。やさぐれながら。

 ほんとうは腹を括る必要なんてなかった。心だけ揺れていたってよかったのだ。身体の性がどうやら決まっても、心の性は、心は、他のだれにも決められないしうばえないものだった。わたしはそれを自分に認めてやることができなかった。周りを気にして。母を気にして。


13.母

 母は相変わらずわたしの「男らしさ」を見つけることに長けていた。呆れたように、でもうれしそうに、彼女はそれを指摘した。
 わたしの身体の凹凸の少ないラインを少年のようだと褒め、異性との付き合いかたをざっくり眺めては「まるであんたが男だね」と言った。

 母の言葉選びは断定的だ。「あなたは〇〇だ」「あのひとは▲▲だから□□なのだ」式の表現を多用する。本人の意図はどうあれ、ものごとを決めつけてかかるタイプであるという印象を与える人だ。

 成人のわたしは親というのが不完全なひとりの人間に過ぎないことを一応知っている。だからこういう母の口調についても「考えかた・話しかたのクセ」として処理することが可能だ。「あーはいはい、また言ってら」である。
 しかし4歳だか5歳のわたしには母の断定することはあたりまえに真実であるものごととして処理された。

「やっぱりあんたは男なんだわ」

 この一文の、どれだけ心を占めたことか。


14.心

 ではわたしの長い混乱が母の呪いによって引き起こされたものであったのかといえば、それもなんだか違っている。

 母が自覚的にか無自覚的にか、娘のわたしに男児性とでもいうべきものを求めていたことはもちろん人格形成に影響を及ぼした。

 しかしほとんど思春期のはじまりとともに迷い込んだわたしの孤独な迷宮にかんして言えば、母はそのほんの入口を示したにすぎない。わたしは自らそこに分け入った。
 「あんたは男、あんたは男……」と奥から誘うように響く声は母のものであるようでいて、実は母の呪文をかりてわたしがわたしを呪っていたものだ。わたしはそこで自身の発した(とは知らない)重苦しい呪いの言葉に囲まれて、苦しみ、恐怖し、絶望し、それでいて望む自分を手に入れていた。わたしは孤独な迷宮の主人であった。


15.崩落

 がたがきても補強に補強をかさねて閉じこもりつづけたその聖域がついに崩れたときには「まあそりゃあそうか」と思った。無理があることにはずいぶん前からうっすら気づいていた。崩れてみればなんと脆弱だったことか。

 崩落のきっかけはやはり、ジェンダー講義を受けたことだった。講義をきっかけにセクシュアリティやジェンダーについて調べたり、人と話す機会が増えた。知識はわたしの思い込みや、偏りや、自己欺瞞を、白日のもとに晒した。まざまざとそれを見せつけられてなお、しらを切ることはできなかった。恥ずかしくてたまらない、と思ったとき、ついに洞窟は崩れ落ちた。

 青春の多くを費やしたひとりずもうの終わり。

 から騒ぎの末にようやく訪れたひとつの理解があった。両性具有とか、異端とか、そういう器を誰かが自分向けに用意してくれることはない。普通とか、正常とか、そんなくくりは現実には存在しない。わたしはわたしという形を生きなくてはならなくて、でもその形は一定の形を保つ必要なんてない。揺れていていいし変わっていい。むきだしの心に外の風は容赦なく、でもそのつめたさに、わたしは自由になったのだという気がした。

 思った。「わたしは女の身体をもち、女であることにイマイチ納得がいかない。よく男のひとをすきになる。すきな男のひととはすごくやりたい。」オーケー。これがいまのわたしだ、と。

 ありきたりな揺れを抱えたいち個人として生きねばならなくなって、わたしはわたしの矮小さをつきつけられた。でもあらためて感じてみればそのスケールの小ささ、何者でもなさはわたしにぴったりフィットしていた。まるで世界対わたし、みたいな「異端」という大げさなアイデンティティよりもずっとずっとふさわしく思えた。自動的に何者かでありたいという願望を、このときにわたしはようやく諦めた。傲慢で、幼稚で、切実だった願い。


16.のこりかす

 男性器が生えてくるという強固な思いこみをこれで完全に手放したかと思われたわたしだったが、強迫観念の燃えがらは思いのほかしぶとくくすぶっていて、「わたしはやっぱり……」という思いが頭をかすめることはその後も何度かあった。特に28さいごろ、夫との子どもをなかなか妊娠しなかった時期には、心がかの呪いに立ちかえりそうに(立ちかえりたく)なることが多かった。

 完全に妄想を手放したのは子どもを産んだ31歳の早春だろう。

 経験してみてわかったことだが、赤子を産み育てるというのはある部分では母体を持つ本人ですら介入不可能な「女の身体」そのものによる事業である。妊娠中から産後まで、わたしは自分の身体にそれが起こるのを半ばあっけにとられながら傍観した。わたしの身体にはこれが組みこまれていた。出産が近づくにつれ身体のさまざまな箇所が色を変えた。産院では赤児をしぼり出そうとおなかが勝手に収縮しだしたし、産まれた子に舐められると乳が出た。本人でさえ蚊帳の外、というくらい圧倒的に進められてゆくこの母体システムのやり口を目の当たりにして、

「お、オーケー。わたしは生物学的に女であります。」

 と思った。全面的に認めざるを得なかった。なぜか白旗をあげる気分だった。
 めきめきと生える男性器のイメージよりもずっと暴力的に、支配的に、わたしの女はわたしをのした。笑うしかなかった。


17.なんとなく

 心のほうはどうかといえば、そちらも徐々に女であることに馴染んでいた。時間をかけて、なんとなく。30が近くなったある日、気がつけば女であることに納得がいっていた。長いこと女として生きてきたために単に慣れたのかもしれない。わたしの性に関する不安定な気持ちも時間が解決してくれるたくさんのことの一つだったかもしれない。

 こんなふうになし崩し的に納得して落ち着くとは思っていなかったから、自覚したときは驚いた。こういうのは変わるならもっとなにか劇的な瞬間を経て変わるものだろうと思っていたのだ。

 性はグラデーションだと今日ではよく言われる。男とか女とかそれ以外とか、きっちり分けられるものではないのだと。わたしの心の性の色にしても、「男」寄りに振れたり「?」が色濃かったりしながら、気づかないくらいのスピードでじわじわと、染まるなりなんなりして色を変え、なんとなく「女」のところに落ち着いたのだろう。いま現在もこれまたなんとなく、そこに留まり続けてはいるのだが、これからまた違う色の段階を踏むことだって普通にありえる。ひとところに落ち着いて終わりとかそういうものではない気がしている。これからも歳をとることやホルモンの暴走や、周りの状況に合わせてなんとなく色を変えていくことだろうし、心もそれにともなってなんとなく揺れながら、なんとなく受けいれることができたらいいと思う。その時々のあたらしい色を。

 ところで自分を女だと思うようになってどうなるかと思ったら、いわゆる女らしくはまったくならなかった。前よりもかえって中性的な服を着て最低限の化粧をして街をほっつき歩いている。女であることへの違和感が薄れるにつれて意識的に女であろうとするしんどい努力がしだいに止んだ、ということらしい。鏡に映る姿には無理がなく、以前よりも好感が持てる。わたしにとって女になることは、性へのこだわりがほどけて、肩の力が抜けるようなことだった。

 こんなふうに、性という概念が多くの人にとって、その人を縛りつけるものでなくて、その人をより楽にしてくれるようなものであったらいいと思う。自らの経緯を思うと、ついそんなふうに願わずにはいられない。


18.ひとりずもうの終わりに

 かつてわたしは女の子であることがしっくりこなくて、男の子にあこがれていて、そこにきて親仕込みの「お腹の中にいるときには男の子だった」というアイデアが組み合わさり、ずいぶんややこしいことになってしまった。ひとりの世界に強迫観念的にひきこもり、長い長いひとりずもうの取り組みをしていた。無観客で。それはとてもしんどくて、しかもすごく滑稽だったと思う。

 その経験を通して自分のことが深くわかったかといえばそういうのもなくて、わたしは自分のことをわからないままだ。女性でいることも、男性のことも、よくわからない。

 なにかひとつでも価値のあることを見いだすとするならば、どこにも所属できないまま生きていてもいいとわかったことだろうか。自分が何者か、ラベルをうまくつけられなくとも、表を堂々と歩いてよい。いまは自分の性を自覚しているけれど、そうでなくたって後ろめたさなどなく往来に出てよかったし、公言したければしてもよかったし、言わなくてももちろんよかった。誰もがそうしてよいのと同じように。

 そういう当たり前のことを、おそらくは多くの人がもっと早くに得る気づきを、周回遅れでようやく手にした。ここに至るまで、ちんちんが生えてくることに怯えたり、一方で異端であることに憧れたりした。しょうもない経緯をたどってきたわたしは、ようやく悟ったこの当たり前を、わりと大事にできるだろう。

 大事にできなきゃ嘘だ。


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