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ニュー・ファウンド・グローリー

【2016.3.22】




「あ、『ディス・ディザスター』だ」

声に出した次の瞬間にはわたし自身の鼓膜を懐かしさでめちゃくちゃに震わせた。
連休最終日のキッチン、18時、独り、ラップをかけた使いかけのにんじんを野菜室に戻しかけた中腰の姿勢。
脳がもうどこか昔にトリップしかけていた。勝手に。ちょっと待って。
5分ほど前、単調に野菜を切り分けながらふと思い出したくなったのはいつか好きだったことのあるアメリカのバンドの名前。
でも「ディス・ディザスター」は曲名じゃなかったかな。

まな板横のスマートフォン。
クックパッドをいったん閉じてグーグルにそれを打ち込めば解決、バンドの名前はそう、ニュー・ファウンド・グローリー。だ。

ニュー・ファウンド・グローリー。

なんのことはない、普段から使っている音楽ストリーミングサービスにも10枚もの彼らのアルバムが登録されていた。
見覚えのあるジャケ画像をタップ。再生。
例の「ディス・ディザスター」も収録されている。
わたしの脳は完全にトリップを許されて10年前・19歳の情景の中にプカプカ浮かんだ。
手元ではたまねぎが薄切りにされながら。
 
19歳のわたしがなぜそのバンドが好きだったのかといえば、当時仲良くなったばかりのたちの悪いバンドマン兄弟にMDを貸してもらったのだ。
兄・弟それぞれにやっているバンドはどちらもすこぶる格好よかった。
とくに兄のほうのが好みだった。
演奏中、ステージ前のパイプを掴んだ華奢な女性が脳震盪でも起こそうとするように激しく髪を振り乱しているのを見て、呆気にとられたのを今でも覚えている。
彼らを観にいったのがわたしにとってはじめてのライブハウスだった。

セックスしたのは弟だが、そのとき薄い壁を隔てたとなりの部屋で兄も誰かとセックスしていたりした。
やさぐれたセックス、実家を出て暮らす人たちの気ままで薄汚れた部屋、小さなハコで、目の前でかきならされる爆音、その気持ちよさ。
兄弟によってはじめて知りえた景色は結構あるみたいだ。
でもそれらの経験すべてを上回って余りあるのがニュー・ファウンド・グローリー。
彼らが何の気なしに貸してくれた1枚のMD。
わたしはそれを繰り返し聴いた。
大きなツタヤで他のアルバムも借りて聴いた。
貸したこともおそらく忘れていただろうそのMDを、わたしは律儀に返したはずだ。
だが弟に貸した10万以上の金は返ってこなかったし、そのまま彼ら兄弟と会うことはなくなった。
たった3ヶ月たらずの短い縁だった。

19歳、わたしはとんでもなく愚かで、愚かでさえなければ見なくて済んだいくつもの光景を目にすることとなった。
返ってこなかった金のことだけではない、それはひとつの発端にすぎない。
わたしは兄弟に対するときのみではなく、全方位的に愚かだったのだ。
自らをさまざまな目に遭わせた。
それでも何ひとつ後悔なんかしてやらない、と肩をいからせているほど愚かだった。
そしてその肩のうしろには、ニュー・ファウンド・グローリーが流れていた。
いつも。
思い出した。

ほどよく火の通ったハムと野菜にケチャップとみりんをからめて、いくらか水分をとばしたところに硬めに茹であげたスパゲッティを投入する。
麺が均等に色づいたところで仕上げ、塩・こしょう。
フライパンからホーローの皿に盛りつけているところに玄関のドアの開く音がして、帰ってきたことを知る。
「ナポリタン」と彼は言い、手を洗う。
ワイヤレスのスピーカーからは件の曲が鳴っている。
「これがわたしの好きなニュー・ファウンド・グローリーだよ。」
紹介してみる。
彼はひとことだけ、「なるほど。」と言った。
もっともだ。わたしが持たせているような意味をこのバンドに持たせているのはわたしだけなのだ。
わたしのことだけを19歳の愛おしい渦につかの間、投げ出してくれる小気味良い音楽。
スピーカーのスイッチを切り、スパゲッティに粉チーズをふんだんにかけて食卓についた。

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