見出し画像

桑の実を食べる

5月6日(木)

幼稚園の迎えのあと同じクラスの子ら数人とその親御さんたちと連れだって公園に行った。きんちょうした。

子どもはクラスメイトとてんとう虫を取り合ったりゆずり合ったりりっぱにやっていた。

ほかの子らが自転車に乗せられて帰っていったあともわたしの子は1ミリも公園を出る気がなく、知らない歳下の幼児を立入禁止区域に誘うなど(いかんよ)精力的に活動していた。2時間。日差しが強く照りつけて、ぼーっとして、母はとても帰りたい。

わたしは公園のすみに桑の木を見つけ、桑の実を紹介することで子どもの気を引き、実を食むかれをようやく自転車に乗せることに成功した。

帰り道。
「おとうさんにみせる」
と食べずに手に持っていた桑の実ひとつ、自転車の揺れのなかで眠りかけた子どもはいつの間にか取り落としてしまっていたらしい。家の近くまできてガクンと目覚めたかれは手の中に実がないのに気づくと泣きさけび、嘆き、拾ってきてよとわたしに懇願した。数ブロック引き返して黒い実を探したけれどまあ見つからない。なだめて家に連れ帰ってもずっと泣いていて、さいごはしゃくりあげたまま寝てしまった。

こういうできごとでいちいち激情をほとばしらせる子どもとのやりとりはぐったりするし正直心底めんどうくさいのだが、いじらしくもある。ぎざぎざのちっぽけな黒い実ひとつぶや、そういうものでかれは世界とつながっている。

5月7日(金)

桑の実リベンジ。

画像1

袋持参で採ってきた

昨日かなわなかった「おとうさんにみせる」が成就して子どもは満足そうだった。

わたしもひとつ食べさせてもらった。
なつかしい味がした。八百屋で買う果物にはない味。つまりそんなに甘くない。おいしくもない。でも食べるって、味って、おいしいだけが大事なのではなかった。桑の実ひとつで意識が子ども時代にひとっ飛びした。食べるタイムカプセルだ。ひとつぶ20ウン年。

小学生時代のわたしは朝昼晩のごはんに加えおやつもしっかり食べていたのにつねにおなかを空かせていて、ひとりで歩いているときはいつも食べられる実を探していた。桑の実、ぐみの実、こけもも、びわ、ざくろ。そこらで成っているのを見つけるや、もいで食べた。学校の裏にあるもの、公園にあるもの、空き地にあるもの、人んちの塀から飛び出しているもの(いかんよ)。ほとんどは放置されて育った木になるそれらの実はお愛想程度にしか甘くなく、苦さや酸っぱさや雑味はきわだって、スナック菓子とくらべたらちっともおいしくなかった。それなのにわたしは木に登って脚をすりむいてまで少しでも熟した実を求めた。誰にも見向きもされていない実りを鳥とともに享受した。おいしくないのに、その複雑な味はわたしを木のあるところに駆りたてた。

おなじ木でも、実の多い年とすくない年とがあった。甘みがつよくてみずみずしい年とかすかすしてまずい年があった。
おいしいをこえて感じるものがあった。わたしは孤独を感じることの多い児童だったが、実をもいで食べるときはひとりでないと感じていた。なぜだか。

おいしいはある程度つくれるものなのだとおもう。うまみや脂や砂糖をつかって。だけどあの絶妙なおいしくなさ、渋味や雑味は、人間にはつくれないものだろう。あれらの実は人や人のつくりしものにできないやり方で子ども時代のわたしに寄り添った。

わたしの子どもが目を糸のように細め、おいしいねえ、おいしいねえと声に出しながら桑の実をついばんでゆく。赤紫に染まる指と唇をみて、そうだろう、そうだろうとうなずく。おいしくなさまでも含んだおいしさ。また採りにいこうね。ほかの実も見つけたらまた紹介するわ。

食べられる実にただならぬ思い入れがあるわたしだけど、あけびだけはまじで意味がわからなかった。くやしい。大人になった今、もう一度チャレンジしてみたい。あの味がわかるようになりたいぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?