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●2022年7月の日記 【中旬】

7月11日(月)

銀行に行った日であり、役所に行った日でもあった。さらに、売るつもり売るつもりで溜め込んでいた古着の山も売りに行けたのだから言うことなしの一日だった。値段つくのか怪しいなと思っていた古着は300円で売れたしなぜか店で使える300円の金券もついてきたから嬉しくて「そんなことあります?」って店員さんに言った。すかさず金券を使って1100円の古着を買い…あ、こういうことかと思った。算数の文章問題みたい。①アカリさんがレジで払ったのはいくらでしょうか。②アカリさんのこの日の古着屋での収支はいくらでしょうか。

夜に子どもの「パスタ」のひと声で作ったありもの組み合わせ系パスタは妙においしく、しかし二度と食べられない味だ。
『ガラスのなかのくじら』という美しい題の絵本を読み上げている途中で子どもは静かに寝息をたてはじめた。絵本を読むと子どもが寝るの、いまだに魔法をみているよう。うそみたい。

7月12日(火)

本への集中力が少しずつ戻ってきてまたじわじわと読んでいる。今日は仕事終わりに寄ったカフェで金原ひとみ『アタラクシア』を読み終えた。

楽しい小説。ヤベー奴しか出てこないんだけどヤベー奴でしたで終わらせてくれる奴はひとりもいない。

7月13日(水)

午前いっぱいで仕事は片付き、子どもの保育時間が終わるまでの間、映画を観ることに決めた。決めたはいいけど上映中作品のなかに観たいのあるかなーと検索して、あ、ベイビー・ブローカーやってる! と気づいた。即チケットを取った。

このあいだ是枝監督が好きなラジオに出演して話していたのを聴いて以来、気になっていたのだ。

楽しい映画だった。
冒頭から「楽しい映画である」という信頼をなぜだか持てて、それは鑑賞中ずっと失われなかった。
作品紹介を1行でも読めば予感できるように、楽しい気分になる題材ではないのに。
実際、開始30分あたりから目はずっとしとしと濡れていた。
でもそれもいい濡れかただった。
むりやりに涙腺をこじ開けられたという感覚は無し。
終わったあとも、鑑賞中ほとんど楽しい気分になったりしなかったのに、はっきり、楽しい映画だったなあと思った。

たくさんの人がこの監督の映画を信頼するわけが少しわかった。

6月14日(木)

デコルテ丸出しで幼稚園に子どもを送り届け、そのまま父母会にも出席。堂々とデコルテ出していればいいんだけどあれ? この場にふさわしいデコルテじゃなかったかも? と気になってしまいそわそわ。最近の傾向としてちゃんとした格好をしようとするとデコルテを露出しがち。すなわちちゃんとした格好というものをよくわかっていない。

幼稚園のあとは子どもとかっぱ寿司で昼ごはん。子どもはイクラを元気に吸い込んでいき、わたしはビールをこらえて(自転車だから)茶碗蒸しをごくごく飲んだ。

6月15日(金)

幼稚園の1学期が終わる。土砂降りの終園式。向かうとき、マンションの敷地を出るなりスリップした。自転車で雨の日のマンホールに乗り上げてはいけないとあれほど。

今日は幼稚園での子どもの預かり業務がなく、だが仕事があるので、子どもの乳児期〜2さいまでお世話になった小さな保育所に預けた。一時預かりという形態。前々から「○○保育所に行ってもらうね」と予告してあり、子どもはけっこう楽しみにしていたみたいだった。送っていったとき小さな保育室からもれてくる赤ちゃん特有の泣き声にゆるゆるの顔になった。赤ちゃんがいるねーと言うと子どもも少しうれしそうにそだねーと言った。

6月16日(土)

わたしの24色入り色鉛筆をあげてからというもの、子どもがすっかり文字の世界に没入している。床にひろげたクロッキー帳に覆いかぶさるようにして、ほうっておいたら1時間以上もその体勢で文字の練習をしているのだ。
今日はわたしの名前を書いて作業机の前に貼ってくれた。彼の書くひらがなは力強く、しかし形はとてもやわらかい。筆跡の誕生を目の当たりにした。この人、こんな字を書くんだなあ。すでに夫の書く文字に似ていてそれにも驚いた。

7月17日(日)

逗子海岸へ。こういうちょっとした遠出をするとき、いつもは子どもとふたりで行くのだけれど、今日は連休のなか日だからということで夫も行くことになった。
おうち大好きで仕事も基本在宅の夫は久々の遠出に緊張して「手がふるえてる」と言っていた。この人は何かと手がふるえるなあと思った、子どもが赤ちゃんだったときも「かわいすぎて手がふるえる」と言っていたし。

ビーチは大盛況、先月きたとき設営工事中だった海の家もずらっと営業開始していた。

砂にもぐるカニをつかまえてバケツに入れて観察するなどして楽しかった。
子どもが海に入りたがるとは思わなかったから水着は用意がなかったのだけれど、あまりに多くの人たちが海水浴を楽しんでいるのを見て「水着ほしい」となっていた。帰宅したらすぐ注文することを約束した。
乳白色の貝がらをひとつ持ち帰った。

7月18日(月・祝)

子どもの行きつけのそば屋に案内してもらった。いつもは父親と行っているらしい。
店の隅の壁にかけられた小さなテレビで「伐木チャンピオンシップ」というのがやっていて見入った。どうやらチェーンソーの技を競う大会らしい。狙ったところに木を倒す種目、枝を払う種目などがあり、目が離せない。

そば屋のあとは銭湯に行った。子どももわたしも銭湯が大好きだ。水風呂と熱めの風呂を交互に入る交互浴を一緒に楽しめる4さいの子は銭湯のパートナーとして最高で、彼と行く銭湯はいつも素晴らしい体験をくれるが、今日は終盤の脱衣所で他の客とけんかになったため、さっぱりとした湯上がりとはいかなかった。がっかりだ。
しかし思う。はっきりと、けんかを売られて買った形だし、相手は子ども相手に自分ルールを押しつけるヤバい奴だとわたしは思ったけれど、案外まわりから見たらわれわれの言い合いの光景は「ヤバい奴 vs. ヤバい奴」だったかもしれない。
わたしの思考のクセとして、ヤバい相手とやりあっている人(今回であればわたし)は正しい人であると思いこみがち、というものがある。しかし世の中の争いやけんかのうちかなりの部分には「ヤバい奴 vs. ヤバい奴」が含まれているだろう。
だからってわたしが爪を引っ込めるつもりはないのだが。

この「ヤバい奴 vs. ヤバい奴」の件はかなり根が深いので(わたし的に)、ひと記事書けそうである。もし書いたらチカラ入った記事になってそうだから読んでほしい。

7月19日(火)

ママチャリでない自転車にまたがって街に出た。日焼け止めをふんだんに塗った腕に雨がポツポツ落ちてきたのでいろいろ読み違えたかなと思う。いや、雨が降りやすいという予報はちゃんとチェックしてあった。それを強引に無視したのは、どうしてもママチャリでない乗りものに乗りたかったのだと思う。
いうまでもなくママチャリは便利で、子どもとの生活に欠かせない移動手段となっている。インフラと言ってしまいたいくらい。しかし、電動機付きのボディはとにかく重たい。動きは愚鈍。右に曲がろうとしてから右に曲がるまでに数秒の遅延がある。身体の感覚と同期しづらいというか、こっちまでどんくさい身体になった気になる。安全運転のために必要などんくささと承知はしているが、それでもやるせなくなるくらいにはどんくさい動きを強いられる。
それにひきかえ、スポーツタイプの自転車はサドルにまたがった瞬間、こちらとの同期が完了する。身体の延長として操作ができる。ペダルを踏み込んだら踏み込んだ強さ相当の推進力を得る。この角を曲がろう、と思考した瞬間にはもう曲がっている。そしてこれも大事なことのようにわたしには思えるのだが、移動した距離ぶんの疲労が肉体に蓄積される。脚部を中心に、背中や腕にもじんわりと「使った感」がひろがる。これに安心するのはアナログが過ぎるかもしれないんだけど。
とにかくペダルを踏み込んで進みながら雨粒を帽子のつばと前腕に受けるのが心地よく、大げさに言えばひさしぶりに身体が世界と正常な接続を取り戻した。
街では大型書店で推しの新刊を買った。サイン本はなかった。サイン本が置いてあるのは街にあるもうひとつの大型書店だったようだ。


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