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●2021年7月の日記 【下旬】

7月21日(水)

脚線美への欲望からオイルを塗りたくってのセルフマッサージを気合入れてやった。やりすぎてたぶん明日、脚、青あざになる。いつもこう。いつもちょうどよい加減というのができない。全くやらないか、やりすぎるか。少しずつ積み重ねることを知らなすぎる。ときどきとつぜん思い立って100やるよりも、毎日きっちり10やるほうがよほど効果的だろう。だけどわたし、毎日おなじことをするのがすごく苦痛なタイプ。継続は力なりとか言われると身体じゅうの力が抜けちゃう。「そりゃぁ〜そうだろうけどさぁ〜〜」ってぐねぐねしちゃう。

しかし自分を「○○なタイプ」って規定するの、けっこうあやしい。他人がご自身についてそういうこと言ってると、はて、ほんとかな? ってときどき思う。たんに自らをその枠に閉じこめておくほうが都合がいいみたいなところありませんか〜って、なる。そのくせわたしも同じことやってるんだよな。わかってなかった。わたしの場合、ものごとを続けられないのがアイデンティティみたいになっちゃってるわけだけど、それほんと? じつはわたしが決めただけでは? っていう。
自分のこといちばん見えてないし、自分で作った檻がいちばん堅牢である。

7月22日(木・祝)

昨年のうちに買っていたカレンダーでは今日は祝日でなかった。五輪のために祝日が移動したらしい。

夫と子どもに行ってきますを言い、9時きっかりに家を出た。仕事だ。電車では夏休みの気配をただよわせる子どもたちと乗り合わせた。

仕事先の更衣室で服を着がえる際、ももに青あざができているのを確認した。やはり。きのう根つめてやりすぎた脚マッサージの痕跡だ。でも覚悟していたよりは薄い、ぽやんとした青あざがふたつきりで、これくらいならもっと強く揉んでもよかったか…などと懲りずに思った。

仕事からの帰り道の途中、池袋でバインミーを食べた。ベトナムのサンドイッチ。

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写真ではわからないけどでかい。
二の腕くらいある

バインミーとドリンクのセットで800円、フォー(ふつうサイズ)もついてくるセットが930円という悩ましい価格設定。130円でおいしいフォーがついてくるのは嬉しい。ぜったいにフォーつきが正解だとおもう。でも二の腕サイズのパン食べたうえにフォーはさすがに入んないんだよな。ってことで泣く泣くバインミーだけにした。フォーかバインミーのどちらかハーフサイズだったらちょうどいいんだけどな。値段据え置きでもいいから。でもそういう半端な手加減しないこの店がすき。ずっとすき。

ここです。サイトも最高

7月23日(金・祝)

夏休みの子ども。広いところで思うぞんぶんに遊ばせてやりたい。でも暑い思いはしたくない(わたしが)。どうしたもんだろう。

朝ごはんを食べながらずいぶん考えて(考えていたらすごくたくさん食べてしまった)、立川の商業施設GREEN SPRINGSに出かけることにした。友人に勧められて気になっていたのだ。中央線に乗るよと知らせたら子どもは喜んだ。

建物に到着するなり、レストランのエリアをかなりリアルでヌルヌル動く恐竜の巨大ロボットが闊歩していた。あ、とんでもないところに来ちゃったかな、とおもった。子どもを見ると立ったままで固まっていた。自分よりも小さきものを愛でる子どもである。恐竜のような巨大なものにはピンときていないというか、ただ怖いらしい。

恐竜から逃げるようにピザ屋に入って子どもの選んだきのこのピザを食べた。メニューを見る前からきのこピザと決めていたようだ。かれにとってピザといえばきのこピザなのかもしれない。メニューにきのこピザがあってよかった。

お腹を満たして歩いていると、芝生エリアにビニールプールが30台以上並べられていて、子どもたちが自由に濡れていた。ちいさなウォータースライダーまである。この充実の水遊び空間が、好きに使ってくれよな!とばかりに無料解放されていて、すき。もうGREEN SPRINGS、すき。わたしはリュックをさぐって着替えとタオルを確認すると、ガッツポーズをして子どもをプールにけしかけた。

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着替え用に持っていたトップスはランニングだけだったため、水遊び後の子どもからは昭和な雰囲気がかもしだされた。施設のスタッフに「裸の大将みたいだね〜」と好意的な感じで声をかけられていたので、「『おにぎり食べたいな』って言ってあげな」とけしかけると、律儀に復唱してスタッフを喜ばせていた。性格がいい。(※正しくは『僕はおむすびが好きなんだな』だったかな)

さいごに同じGREEN SPRINGS内にある有料の遊び場で2時間みっちり遊んだ。

きょうはここ目当てで来たのだった。噂どおり、涼しい屋内でやりたい放題やらせてくれるすてきな遊び場。いい遊具があるだけじゃなくって、スタッフの子どもへの関わりもすごくいい。プレイセラピーとか、そのへんの知識の気配を感じた。

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「おおきなたまご」をころがす子ども

日が暮れるまでこれでもかと遊んだ子どもは帰りの電車でさすがに寝た。どっぷり暗くなってからたどりついたわが家では夫がおいしい炒め物とモロヘイヤのスープを用意してくれていた。子どもはそれを食べられなかった。

7月24日(土)

ブレイディみかこさんの本ばかりを今年は読んでいる。この人の文章からはいつもくらくらするほど自分の頭で考えたことの匂いがする。自分の頭で考えるってまさに今わたしがしなきゃいけないことの筆頭だ。それで吸い寄せられるように手に取っては夢中になって読んでいる。

ものごとをほとんど自分の頭で考えてこなかったと気がついたのはここ1、2年のことだ。そう気づいてがく然としても、突然自分の頭で考えられるようになるわけじゃない。自分の頭で考えるってすごくむずかしい。わたしには。ようやく1ミリ考えはじめたくらい。

7月25日(日)

今日は家族3人で買い物にいくよ、という約束にうきうきしていた子どもは昼食後、うきうきしたまま昼寝に入り、そのまま外がどっぷり暗くなるまで寝た。途中何度か声をかけはしたが、目をうっすら開けてすぐ閉じるだけだった。かれの眠りはたいへん深い。

19:30をまわったところで「さすがに!」と、夫と連れ立ってもう一度起こしにいった。こんどは呼びかけに目をぱっと見開き、外が暗いのを見てとった瞬間、「みんなでおかいものいきたかったー!」と絶望のポーズで泣いた。

わたしと夫はどちらかが子どもを連れ出しているあいだ、残ったひとりが自分の用事をしたり家の雑事を済ませる、という連携をしていることが多く、3人で出かけることはここ何か月もなかった。子どもはそのことに文句を言うことはなかったが、「3人で近所の商店街にいく」それだけの予定が泣くほど響いていたということは、家族3人でのお出かけがすきなのだろう。知らなかった。子どものこと、かなり知らない。

あんまりいじらしいので今からでも買いものにいこうということになった。隣町に21時まで営業しているカルディがあるらしい。自転車2台を走らせて夜のお出かけだ。カルディには子どもの気になる存在である「こどもびーる」はなかったものの、15連グミをかごに入れて得意げにしていた。

帰り道、夫がこぐ自転車のチャイルドシートから話しかける子どもの声はぬるいが熱くはない夜風にまぎれてあまり聞き取れず、でも声が弾んでいるのはわかった。とんちんかんな会話をかわしながらタテ並びで走った。

7月26日(月)

夫の親戚より大量の野菜到来。「だし」を作った。

毎年このレシピにお世話になっている
白ごはんにも合うが
そうめんやそばと食べるのもおいしい

ゆっくり読みすすめていた『花の子ども』を今日読み終えた。

noteにも公式の紹介があった

翻訳ではあるけれど、これははじめて読む文体だ、とおもった。息継ぎさせてくれるというか、やさしく突き放してくるというか。ここ最近、読む側に読みかたのいくらかを託してくれる小説はきっとよい小説なのだという気がしてきた。その意味でこれはすごく気持ちのよい小説だった。

7月27日(火)

7月も終わろうというのにベランダのイチゴが赤い実をつけていた。最初の実は1月に成ったから、うちのイチゴは半年以上も実りの季節を続けていることになる。細々とではあるが。

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食べごろになれば子どもに教えるつもりだった。子どもは食べごろの2日前くらいに自らちゃんと気がついて、工作用のはさみで収穫して食べていた。すっぱい顔をしていた。

7月28日(水)

夜になるとパクチーの鉢にきのこが生える。しかし翌朝の7時には決まって姿を消す。よくよく見ると茶色い糸くずのようになってしおれ、土にまぎれている。

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そして数日後の夜にはまたひっそりと生え、翌朝には消える。ふしぎなきのこだ。

それにしてもパクチーの元気がない。種をまく季節が悪かったか。

7月29日(木)

こうして毎日日記を書いていても、いちばん取りこぼしたくないところばかりをぽろぽろ取りこぼしているように思える。たとえば朝かけよってきた子どもはわたしに何と言ったのか? ベランダの草花に水を注ぐあいだ何を思っていたか? 今日読んでよかったなあと思った本はどの部分がよかったか? なにか、思ったはずのことが次から次へと吹き飛ばされる。「お弁当の具どうしよう」「amazonでアレ買わなきゃ」というようなひっきりなしに訪れる爆風によって。夜ふとんに入って振り返るときにはわたしの感じ取っていたはずのものは跡形もなく消え去っている。

こうして夜に一日を振り返るのは砂つぶをかき集めるようなものでかき集めた砂をみてもまったく今日をあらわしている気がしない。でもふつうに書かないよりはまし、書かなければ一粒の砂も残せないわたしである。

7月30日(金)

公園の砂場に子どもが熱中するあいだ日陰のベンチで図書館の本を読んでいた。小説家のエッセイ。

金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』

本の向こうにつねに子どもの姿をとらえるようにして読む。しだいに入りこんでゆき、この本のちょっと陰鬱で、かつ居心地のいいトーンに身をゆだねる。視界のはしで子どもがかすんでいる。かすんだ子どもがこちらに手を振るのにはっとしてピントを砂場に合わせる。手を振る。子どもは砂山づくりに戻る。わたしもまた本に没入する。……というのを何度もくりかえした。

日焼け止めを数回ぬりなおしたので、何時間も外にいたわりには、アホみたいな日焼けにはならずにすんだ。

7月31日(土)

夫と子どもと3人でラーメン屋に行った。3さいの子どもと大盛りラーメンをはんぶんこした。はんぶんこ、はラーメンのときに限ってはほんとうにはんぶんこだ。場合によっては半分よりも食べる。子どものムラのある食欲をこれほど安定的にかきたててくれるのはラーメンくらいだ。子どもを育ててくれるさまざまなラーメンには感謝の気持ちでいっぱいだ。

夕方にひとりで電車に揺られて区内の保健センターへ。かのウイルスのワクチンを打ってもらった。注射針が肩に刺さるところをじっと見ていた。「あら、見られる人?」「はい、見られる人です」。というか、見ずにはいられない。いつチクリとくるのかわからないのが怖いのだ。
注射針刺されしぐさにはいくつかのパターンがある。医療従事者であるわたしの母がいつも話していた。顔をそむける民、ガン見の民、かたく目を閉じる民、怖さのあまり怒る民。思えば母はガン見以外のしぐさをいつも小馬鹿にしていたので、わたしがガン見の民となったのはそのせいかもしれない。

注射には痛さがなかった。ガン見していなかったら本当に注射されたか疑っただろう。それくらい。そういうものなのか、担当してくれた看護師がワクチン天使だったのかはわからない。

ポカリスエットを3リットル買って帰った。

接種部位はじわじわと痛みを増している。明日は腕が上がらないかもしれない。


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