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【米田アカリのこと】

 おれは米田アカリのことを他の大学連中と同じようにヨネと呼んでいたし、大学を出て5年以上経った今でも——といっても機会はそうないが、共通の友人の結婚式やサークルOBの飲み会で顔を合わせることがあるときには変わらずヨネと声をかける。周囲の誰もと同じように。

 大学のサークルで知り合ったころから、米田だからヨネ、というごく簡単なあだ名ともいえない呼び名以外で米田アカリを呼ぶ人間はいなかった。酒の席でこそ米田は親しみのもてる酔っ払いであることに成功していたが、しらふで仲の良い友人が学内に数人でもいるとは思えなかった。人と深い関係性を築くことが苦手であるのは明らかで、つまりはだから飲酒を得意とするようになったのだろう。これはおれにも心当たりがあって言えることだが。
 おれは年次がひとつ上で、米田が入学してきてから3年間サークル活動を共にした。おれたちはヨネ、ジミー(苗字の富士見にちなんでおれはみんなからそう呼ばれていた)と呼び交わし、少人数で酒を飲んでも学生にありがちなふざけあいを楽しむくらいで、互いの領域に踏み込む話は一切しなかった。
 サークルにどっぷり浸かっていた連中はまるで違う意見を持っていたはずだが、おれや米田のような連中、つまりアルバイトのシフトを基軸に生活のすべてを回しているような学生たちにとってはサークル活動やそこでの人間関係は最重要事項からいくつも遠い位置にあった。
 おれも米田も内輪の、だれだれが付きあっていてどうとかだれがだれを好きだとか嫌いだとかを茶化しはしても、深くこみいった話が始まると手元のビアジョッキとカラアゲに集中し始める手合いだった。じっくり腰を据えるつもりのないコミュニティで、間合いにいつも気を配っていた。
 その点では気の合う友人と言えたのかもしれないが、在学中におれたちが腹を割って話すような仲になることはなかった。サークル連中の誰ともそうであったように。

 だから学校の卒業とともにおれがサークルを去ってからの一時期だった、米田をアカリと呼んでいたのは。6年というそれなりに長く、薄くて浅いおれたちの付き合いのなかに、そんなふうに例外的な1年間がたしかにあった。おれはかなりの頻度でその名前を口にして、メールにも打ちこんで、米田も呼び慣れたあだ名でなく、ほかの誰も使わない愛称でおれに呼びかけようと苦心した。だってセックスのときに「ジミー」じゃきまらないもんな。

 アカリ、と今その名前を頭に浮かべてみても全くぴんとこない。知らない誰かの名前のようにしか思えない。だがその時期においては最重要レベルに属する名前だったのだ。声に出して呼びかけるたび眉間につんと来るような、首のうしろがざわざわ震えるような。不思議だが、そういう誰かの名前を持っていた経験があるのはおれだけではないだろう。

 寝たのは好奇心からだった。それも純度の高い好奇心。だがそれを続けさせたのは違うものだった。おれにとっても、米田にとっても。

 おれがいまの会社に新卒で入った春、大学4年の米田が実家を出て東京の町に越してきたので、小さな部屋でいとも簡単にそれは始まった。おれには高校からの彼女がいて、米田にも付き合いたての彼氏がいた。だから会社勤めをはじめたばかりのおれが毎晩のようにそのワンルームに帰るようになっていたことは周囲の誰にも知らせなかった。最近仲がいいんだなくらいには思われていたかもしれないが。先にも言ったように他者との間合いにいつも気を配って生きている連中としておれたちは徹底していたうえに、それをいちいち確認し合うこともしなかった。そういうところも互いに気に入っていたのだと思う。米田は付き合いたての彼氏の存在をおれに伝えもせず、ほのめかすこともしなかった。おれもおれでそうなってからは米田の前で彼女の話は一切しなくなった。

 うしろめたさからではなく、おれたちはふたりでいる時間と空間を、ただふたりだけのものにして無邪気に楽しんでいたかったのだと思う。米田の彼氏がいておれの彼女がいる、学校があり会社がある現実の世界とは地続きでない非現実的な場所として、米田のおもちゃじみたワンルームは設定され、機能していた。慣れない勤めを終えてくたくたになったおれがスーツのままアパートのチープな外階段を上る、一段ごとに現実の空気は薄れ、かわりにその日米田が作った料理の匂いがする。ドアの前に立つ。そのドアはどこか現実味がない。プカプカ浮かんでいるようだ。鍵を使ってドアを開けるとのんきな天上人のように米田がロフトからバタバタと下りてくる。嬉しそうに笑う。おれは部屋に入り、背後でドアが閉まり現実が遮断されるのを心地よく聞いた。これで翌朝までは米田と面白おかしく過ごすだけの時間だ。下界のことは何も気にしなくていい。心が安らぐ。

 こういう非現実のままごとは、おれにとっては憩いだったが、米田にとってはもう少し切実なものだったように思う。現実に対する猶予を必要としていた。そのころの米田の現実はかなりタフだった。

 おれたちはそれぞれの必要にしたがってふたりの時間を楽しんだ。肉を食べ、酒を飲み、遊びまわり、いろいろなセックスを試した。そこでおれたちが何をしても、現実の世界には何の影響も与えない。影も落とさず、光も漏れない。安心だ。

 ふたりでずいぶんいろんなところへ出かけた。一度は泊まりで温泉にも行った。楽しいことは多かった。楽しいことだけではなかった。米田は何度もおれの前で泣いた。情緒の安定しているほうではなかった。そういう夜におれは米田が眠りにつけるまでずっとそばで頭をなでていたこともあるし、そうしなかったこともある。そして季節は過ぎた。

 いろいろなことを知ったのは、終わったあとだった。そのときおれは米田に彼氏がいたことを知り、その男とはとっくに別れてべつの男と付き合いだしていることを知った。米田もまた、おれが高校来の彼女と別れていたことを知り、好きな女性ができたことを知り、こちらのアプローチで付き合いにこぎつけたことを知った。そしてふたりとも、自分たちの季節がすっかり終わっていたことを知った。

 思い出はたくさんあるはずなのに、ふたりで話したこと、行った場所、見た景色のどれもが彼方に霞んでいる。現実にはなかったことのように。
 それでもひとつ、米田のことで頻繁に頭をよぎる記憶がある。決まって同じ情景、よく晴れた5月の日曜日。米田についての記憶である。しかしそこに米田の姿はない。

 おれは彼女とショッピングモールにいる。大きなモールだ。店舗のある建物は吹き抜けになっていて、中庭がある。週末にはその中庭で催しが開かれるのだ。低いステージでフラガールたちが踊るハワイアンフェスタだったり、屋台が集まって地方のB級グルメを紹介していることもある。
 その日は蚤の市が開催されている。快晴でも暑くはない、5月の天気の見本のようなからりとした体感。

 古道具や古本、焼物の出店のあいだを、彼女と手をつないでぶらぶらと歩いている。ひやかすくらいの気持ちで店を見ていても、だいたいが並んでいる品物の作り手や仕入れ人が売り子をしているものだから、話が盛り上がるうち買うつもりのなかったものも買ってしまう。箸とか。ツボ押しとか。竹トンボまで。気がつけばいくつもの包みを抱えているおれに彼女は呆れている。彼女は数冊の古本を買っていて、見せてもらうと絵本が一冊ある。小さい頃に好きだった絵本を見かけてどうしても手元に置きたくなったのだという。そういうところいいな、と思う。

 蚤の市の区画の端に着く。最後の一角は器が多く並べられている。もう買うつもりはなくて流し見ているだけなのに、そこで青と赤のグラスが目を引く。切子だろうか、蔦の模様が斜めに巻いている。陽射しを受けて木のテーブルに赤と青の影を落としている。その影にも蔦が巻いている。大きさからロックグラスなのだろうが、おれにはこれでビールを飲んだらさぞうまかろうと思われた。
 「ペアグラス。どう?」と、おやじが声をかけてくる。おれはそれをすぐに買う。横から彼女がのぞいてきて、「なに? ペアグラス?」と言う。おれは、最近結婚した会社の先輩へのお祝いにしようと思って、などと言う。

 店先でグラスを見て、こいつでビールを飲みたいもんだと思ったとき、想像の中で赤い蔦のグラスをかかげていたのは米田だった。にぎわう通路でペアグラスの入った袋をぶら下げて、おやじが釣銭を持ってくるのを待つあいだ、おれははっきりとそのことを自覚した。彼女はビールを飲まない人で、米田はビールを愛していた。そのせいだ。そのせいだとしても、おれは米田のことを思い浮かべた、これ以上ないくらいにはっきりと。この現実の世界で。そしてそれがまったくはじめてなんかではなかったということに気がついた。
 ショッピングモールの真ん中に突っ立って、横には彼女がいて。おれは底なしの間抜け野郎だとそのときはじめて思った。

 ペアグラスは米田に渡したはずだし、そのグラスで一緒にビールを飲んだはずだ。おれが一目惚れした赤と青の蔦のグラスは、米田宅の冗談みたいな据付けの食器棚におさまったのだろう。思い描いた通りのことを果たしたわけだが、そのあたりの記憶は雑然としている。よく思い出せない。5月の陽光の下でその場にいない米田のことを考えていた、それに気づいて立ち尽くしていたときのことばかりを思い出す。

 米田の知らないその瞬間は、おれと米田の楽しいままごとに終わりの号令がかかった瞬間だ。もう片づけどきだった。おもちゃを箱にしまい、現実にはたらきかけなくてはならなかった。現実とは何なのか、どうやって現実と折り合いをつけるのか? 単にこの楽しい遊戯を解散するか、それとも今のパートナーと別れ、現実のふたりとして付き合いはじめるのか……、どんな形をとるにしろ、今のままでいられないのはおれにとってたしかなことだった。

 でも米田はおれがきいた号令を知らなかったし、おれと違ったかたちでそれを耳にしていたとしても、きこえないふりで通していた。
 ままごとを終える胆力はそのときの米田になく、その場で立ち上がりかけたおれに気づいてもぐずぐずとおもちゃをいじくり回していた。それで、しまいには米田とお遊戯セットが残ることになった。おれはそこから姿を消した。

 それから米田がどうしたかは知らない、ひとりでいつまでもおもちゃの城にとどまっていたわけではないだろう。ついにそこを出たか。もしかしたら新しい相手を見つけて引き込んだかもしれない。今も誰かとままごとを続けているのかもしれない。そうだとしておれはまったく驚かない。米田のままごとを信じこむ能力は達人級で、人を引きこむ力を持っていた。おれも米田をあともう少しでも好きだったなら、あるいはあともう少しでも好きでなかったなら、あそこでままごとを続けていただろう。





 これはわたしの願望だ。富士見くんによってこのように思い出されたいというむき出しの願望。

 つい先日の朝、わたしの家にある切子のグラスが割れた。まだ頻繁に会っていたころ、富士見くんが彼女とデートをした日に買ってきてくれたおみやげの片割れだ。赤い蔦のほう。床の上で3つの大きな破片に分かれた。青い蔦のほうはとうにない。どうしたんだったか。富士見くんとうちで飲んでいるときに割ってしまったか、会わなくなる前に富士見くんに返したか。思い出せない。
 破片が拾いやすくてほっとした。きれいに割れてくれた。正直に言ってあまり好みでなかったグラス。富士見くんが行った屋外のイベントでは透き通って見えたという赤い蔦も、酒を飲む時間にはいつも血液のような鈍い赤サビ色にしかならなかった。夜中にテーブルに置いてあったりすると、血管の浮きあがった男の腕が輪切りにされてあるようで掛け値なしに不気味だった。径が大きく場所を取るのもひとり暮らしのちっぽけな食器棚にはそぐわないポイントで、富士見くんがここに来なくなってからはずっと、戸棚の上段のあまり使われない食器の吹きだまりとなっている箇所に押し込められていた。割ったのも、他の器を取ろうとひっぱったときにひっかけて落としてしまったのだ。だから割れて燃えないごみ、キケン、になってもとくに困らない。使っていなかったし。
 でもわたしは富士見くんをすごく好きだったのだ。あの日、はじめて形の残るものを貰って本当にうれしかったのを覚えている。ほとんど泣きそうになったくらいだ。だから、床にどんくさく転がる破片を見ていると、グラスを受け取ったときの切実な感動が時を超えて損なわれたように感じて、ちょっと傷ついてしまった。

 その次の朝に夢を見た。わかりやすく富士見くんが出てきてくれた。

 わたしは車の行き交う国道の真ん中で富士見くんにすがりつき、その胸板を叩いてなにごとかわめいていた。自分の口から出ているとは信じたくない金切り声。泣きごと、恨みごとである。富士見くんはただ丸太のようにそこに突っ立っていた。物理的にも精神的にも揺らぐことなく。
 わたしは涙を流してこの人に打撃を与えられないことを悔しがったが、最後には「でも、もう大丈夫だと思う」と小さく告げてその胸元から身を引いた。「うん」と富士見くんは言った。バイクの走行音やけたたましく鳴らされるクラクションの中にあって、その「うん」はしみじみとわたしの耳を分け入ってきた。ハッと顔を上げるとそこに富士見くんの姿はなかった。

 人を好きになるって、相手にナイフを持たせるようなものだ。富士見くんを好きになってそう思うようになった。ほとんど思いつめていたのだろう、わたしは富士見くんとの関係を通して、本当に好きになった相手だけがわたしを傷つけることができるのだと知った。わたしのナイフはしばらくの間、富士見くんだけが持っていた。その間ずっと富士見くんの言葉だけに傷つき、弱り、血を流した。
 それでいてわたしは富士見くんのナイフを持たされていないのがよくわかっていて、それが悲しかった。富士見くんはきっとわたしの言葉にそれほど傷つかない。動揺しない。わたしが富士見くん以外の人の言動にそれほど傷つかず、動揺しないのとまったく同じ理由で。ようこそ恋愛の世界へって感じだ、対等でも公平でもない。

 でも思い出のグラスを割り、夢の中とはいえ富士見くんに「もう大丈夫」と言えたことで、わたしのナイフはこの手に戻っているのがわかった。あーあ、富士見くんだって重かったろう。また誰かにこのナイフを渡すことはあるんだろうか。富士見くん以上に好きになれる人と出会うことなんてあるのか? おなかの奥がちくちく痛む。これからの人生で誰かと固い関係を結ぶことなどあるのだろうか。すごく好きだった富士見くんはわたしの知らない誰かと結婚したし、いま恋をしている相手にも妻がいる——こんなわたしが。

 うちの台所、今日びイケアのおままごとキッチンにだってもうちょっと気の利いた設備がついているぞという台所には、クリームシチューが温まっている。コンロは一口、加熱方式はガスでもなくIHでもなく、渦巻きの電熱線である。何を言っているのかわからねーと思うが、わからないほうが幸せだ。こんなシロモノとは一生かかりあいにならないで暮らせたほうがいい。
 好きな具材を多く入れて牛乳と小麦粉だけで煮たとろとろのクリームシチューが鍋いっぱいの白いマグマとなって煮えている。クリームシチューなんてまさに子どものおままごとに登場しそうな献立だ。幻想のなかにしか存在しない家庭そのもののにおいがする。「おかえりなさい、あなた。きょうはシチューよ」「いいにおいだなあ」「やったあ。ぼく白いシチューだいすき!」「ママ、あたしのはにんじん入れないでよね」……。

 皿に出したサトウのゴハン(えらい)の横にシチューを流しこみ、アホみたいな家族だなと思う。でもこれってもしかして、わたしが欲しくてたまらなくて、たぶん手に入らないものなのか? ——そう。そしてこれこそが富士見くんと手に入れたかったものなのか? ——それもそう。ああ、自分の本心なんて、時に知ってがっかりするほど浅はかだな。隠してあるわけだ。クリームシチューが熱くて食道がひりひりする。でも大好物だから食べるのを少しも待てずに適温になる前に食べ終えてしまう。

 あの夢を見たあと、数日かけてニセモノの富士見くんの想いを書き綴っていた。富士見くんは決してあんなふうにわたしのことを考えないだろう。新しい生活の中でわたしを思い出すことすらないかもしれない。というか富士見くんには富士見くんの物語があって、わたしが書いたのは富士見くんの名前を借りたわたしの物語だ。遅れた恋の葬式のための弔辞みたいなものだ。弔辞なんて聞いたことないからよくわからないけど。
 ほんとうにこれで葬り終えたのか? そう思うしかない。コンロの鍋のいつまでも消えない湯気が、換気扇に向かってまっすぐ立ちのぼっていた。




 

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