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【はつこいふしまつ】 前編


 私はついに冷静になった。精神をひんやりとした風が吹き渡り、湿度の低いその風は、身体までをも軽くしていった。ここ最近の混沌が嘘のように胸の中が透き通っている。自分の胸がゆっくり上下するのを意識して、これまで息をちゃんとしていたことなんてなかったのではとあやしんだ。ものがまともに見えるのは実に二週間ぶりのことだし、もしかしたらもっとずっと前からなかったことかもしれない。米良とはじめて出会った十歳の初夏から、十一年間、私はまともな呼吸なんかしてこなかったのかもしれない。



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 とても大事な飲みがあった。

 私には付き合って一年半ほどになる彼氏がいる。好き好き大好き、超大好きな彼氏である。その彼氏のことを大好きすぎるがゆえに全然うまくいかなくなって、めちゃくちゃよくある話なんだけど、ついに向こうから「距離を置こう」となってしまった。めちゃくちゃよくある話が自分に起きるとびっくりする。びっくりした。それが半月まえのこと。
 それでこの半月、私は気が違いそうなのと解放感とで心がないまぜになっていて、そのないまぜの心はどういう理屈でか、理屈なんてないのか、男の人を切実に欲した。男性と二人で過ごす時間を求め、ひたすらにLINEをしまくった。見境なく。電柱に性別があれば電柱にもLINEしたと思う。夜、誰にも会わずにひとりで考えこむ時間ができてしまったら、気が違って死ぬとでも思っていたのだろう。あと、普通に男の人が好きなのだろう。誰かれ構わず連絡をして誘って会って、を繰り返すうちに大胆になってきて、初恋の人にも飲もーよと気軽なふうなLINEをひょいっと送信した。送信してから我に返ってうわわわわわ、となった。初恋の人・米良は私にとって簡単に侵してはならない聖域のような存在であったのだ。やっちゃった、どうしよう、と慌てるそばから『いいねー』と返信がきてちょっと涙でた。そうして飲みの約束にこぎつけたのである。

 米良。小学校から高校まで同じ学校に通った私の幼なじみであり、初恋の人である。飲もうとスマホで連絡をしたら飲むことになるなんて、そのあまりのトントントン、って感じに震えた。ハタチ過ぎてよかったし、気軽に誘える居酒屋という存在は最高。スマホも最高。飲もーよだけで二人で会える。そのことにほとんどガックリ来たと言ってもいいくらいだ。

 米良への片想いにはちょっとした歴史がある。米良に恋していたのは小学四年から高校二年生くらいまでだから、およそ八年間だ。ほかの人が気になっていたこともあるし好きの度合いに波もあったけど、それにしても八年の片想いってけっこう執念深いなあ、と自分でも思う。何ひとつ実らなかったのに、しつこく好きでいた。多分、叶わないからこそ諦めがつかなかったって感じなのかも。もしかしたら、もしかしたらって。
 クラス替えの度に教師たちを呪ったことを思い出す。十二年間同じ学校で過ごしたというのに米良と私が同じクラスに振り分けられることはついになかった。
 修学旅行の自由時間にバッタリを装って会いたいがために計画を立てたこともあった。見つけた米良は彼女といたから、私はアホみたいに京都の漬物屋でひとり、試食の漬物をぼりぼり食べることになった。涙まじりの漬物だ。京都に行って漬物ばかり買って帰ってきた十四歳の娘に両親は驚いていた。
 ゴリ押しで同じ塾に通ったこともあった。その塾は私の家からは不自然に遠かった。
 そんなふうにじたばたと、なんとか二人きりになろうともがいたが、成果はほとんどあがらなかった。小中学生の子どもが意中の人に会うためにできることなど、幸運を祈る、つきまとうくらいしかないようなのだった。高校生になるともう少し手は増えたものの、その頃にはもう、米良には常に彼女がいた。米良は素朴な男だがもてるのだ。私は米良に手も足も出なかった。好きと伝える勇気もないし、何ができるわけでもないのに、なんとか話せる機会を作ろうと、いつもウロウロしていた。学校で。それでひとことかふたこと話せるだけで、なんなら話さなくて軽く手を振りあうだけでも、それから何日も嬉しかった。
 そういうアホみたいに青春らしい、ささやかでひとりよがりでキラキラした砂粒みたいな思い出を、スマホを持った私が未来からざりざり踏みつけにしてしまったような感触があったのだ。あの返信が届いたとき。すごくどうでもいいし米良と飲むことにはしっかりウキウキワクワクしていたけど、それはそれとして、どこか思い出を損なうようなことをはじめてしまったのかもしれないという予感はあった。本当だよ。

 そう、米良はもてる。中学の後半から彼女を欠かしているところを見ていない。それより前だって靴箱に手紙が入っているのをよく見かけた(見かけた? いいや、チェックしていたのだ)。でも今は高校のときから付き合っていた彼女とちょうど別れたばかりで、まあ米良だからまたすぐに彼女ができるんだろう、けど今はとにかくひとりでいる。そこにきて私も彼氏と冷却期間中である。ひとりである。二人ともが。これはもう十二とか十三のとき以来のことなのだ。

 約束の日の昼は、時間がのろのろとしてなかなか進まず、私はずっとそわそわしていた。こんなにそわそわし続けたらおかしくなっちゃう、でもおかしくなったら米良におかしなやつって思われちゃうから落ち着かなきゃ。でもやっぱりワクワクが止まらなくて困ったなあって感じの日中を顔パックとかしながらもんもんと部屋で過ごした。大学に行け。

 でもここは大事なところなんだけど、私は米良と寝たいわけではなかった。そういうことをするために会いたいわけじゃなくて、米良に密かな恋心を抱いていた長い長い少女時代に対する、これは少し大人になった私からの贈り物のようなものなのだった。あわよくば酒の力を借りて、青春と呼ばれる時期のかなりの時間をつかって米良のことが好きだったのだよと、伝えられたらいい。
 誰に言い訳するでもなしに、頭の中で熱心にそう唱えていたまさに私が、いちばん最近買った下着を選んで身につけていたのだから本当にあてにならない。私の顕在意識はあてにならないことで有名なのだ。なんならそのために買ったようなものだったなあ。あの白いレースのブラと、揃いのひもパン。
 ひもパン! 性交の現場において私が一番信頼を置いてる下着じゃん。

 かくして横浜駅で待ち合わせた私と米良は、ちょっと隠れ家っぽい居酒屋のロフト席(私が予約した。若い女性と飲みに行くのにはりきっている下心みえみえのおじさんみたいな店選びだね!)でしこたま飲んだ。おもに私がしこたま飲んだ。
 この数年で男性経験をなんのかんの積んだとはいえ、私は城の周りでこんぼう振り回していきりまくっている女ゆうしゃ、レベルひと桁。中一からセックスを知っている米良は格が違う。米良としらふで二人きりになるのはかわのふくでピサロさんに挑むようなものだ。むり。
 米良はいつもリラックスした男でそれも人を惹きつけてやまない魅力のひとつだから、普通にこの日もリラックスしていて素敵だった。問題はわたしの神経が昂りすぎていることで、とにかくアルコールが必要だった。米良がビールを一杯飲むあいだに焼酎をロックで二杯飲んで、のペースで続けていたらなんとかそのうちにリラックスしてきて直近の恋愛の話なんかをした。
 私は米良の最近別れた彼女を知っているし、米良も関係凍結中の私の彼氏を知っている。なにせ四人共同じ高校に通っていたのだ。登場人物全員オナコー。
 米良は高校のときからその女の子と付き合っていた。ものすごく可愛い子で、わたしはろくに嫉妬もできなかった。米良はもてるが誠実な男なので女をとっかえひっかえにしたりせず、付き合った相手とは長く付き合ってきた。米良が歴代の彼女たちと付き合いだしたのを知るたびに疼いた『どうして私じゃ駄目なの』的な気持ちも、そうやって米良に大切にされている彼女たちを見るとションボリしぼんでしまうのだった。私があれに値するはずはないものな、という納得。にがい気持ち。酒を飲みながらそのときの感情がまざまざと思い出された。酒が進む。

 二軒目、一軒目よりも少しごちゃごちゃした安居酒屋の座敷に落ち着くとかなりくつろいだ雰囲気になって、わりにお互い突っ込んだ話もできるようになっていた。私たちはおもに恋愛の話をしていた。米良も色恋について話すのは好きみたいだった。話がはずんだ。私は思惑通り、酒の力を借りることでリラックスできて良かったのだけれど、アルコールの謎の副作用によって、すべて洗いざらい話さなくてはならないという気持ちになっていた。それで、関係凍結中の彼氏と付き合うきっかけになったペッティングについてを詳細に解説していた。途中で私はいったい何を、と思ったものの、私の話なんてまったく問題じゃなかった。そのあとの米良の話を聞いてわかった。

 米良の語り口は素朴だ。楽しい話でも哀しい話でも微笑みをたたえながら、大きくも小さくもない声で語る。ペースも一定で緩急というものがあまりない。
 米良が言うには、十九のときクラブで声をかけてきた三十歳の女性二人連れにホテルに誘われて3Pをしたのだそうだ。

 クラブ、歳上の女性、逆ナン、3P。情報の奔流が米良の穏やかな声でもたらされる。それらはウォッカそこのけに私の脳髄を直撃した。

 いや、私もクラブには行くし、ゆきずりの人とのアブノーマルな交わりの経験も無いではない。そういうことじゃない。そういうことじゃあないんです。米良。素朴な愛情を持ち、付き合った人を一途に大切にする男の子。私がずっと好きだった、米良。どう計算してもその3P事件は米良がまだ彼女と付き合っていたときに起きていた。
 平静を装いながら(もちろんほどよく驚きのリアクションをつけながら)ハンマーで殴られたようなショックを受けている私に向かって、米良はたんたんと話を続ける。その二人組の女性としたプレイの話がまたすごい。そんなことを。米良が。

 泣きそうだった。ここ最近の自分まわりのことに思いは飛んだ。私は彼氏が大好きなのにうまくいかなくなって、そのへんの好きでもないし私を好いてもいない男と簡単に寝ていた。そういうのは本当にびっくりするくらいトントン拍子にいくのに、彼氏とはなんだか寝られないようになっている。私は米良にもずっと触りたかった。米良のことを大して好きでもないその場限りの女性たちは米良と寝られるのに、ずっと米良を好きだった私は米良に触れたこともない。本当に好きな人とは抱き合えない。これから先もずっと。私はそういう人間なのだろうか。くやしくて悲しくて、あそこはビチョビチョだった。

 それから私はアルコールの路をさらにずぶずぶと進んだ。帰れる電車がなくなるくらいで、米良にかつての初恋の想いを伝えた。それがすっかり過去の気持ちであるみたいに笑いながら、その話をつまみに米良に二、三杯すすめて、自分はもっと飲んだ。

 気がつくと米良をホテルに連れ込んでいた。

つづく


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