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『利生の人』のこと②

お盆も迫ってきた時節、だいぶん暑さにも慣れてきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

前回からデビュー作『利生の人 尊氏と正成』のことを書きはじめましたが、何かやり出すと忙しくなる、というのも人の世の常と言いますか。
少し間が空いてしまいましたが、前回、本作のテーマが「禅」であって、足利尊氏と楠木正成が禅の同門であった、と子どもの時に聞いたことが発想のもとにあった……というところまで話をしました。

今回はその続きです。

建仁寺は、京都五山の第三位を占める禅寺です。開基は源頼家、今年の大河ドラマの鎌倉殿ですね。そして開山は、日本に臨済宗を伝えた栄西です。

京都の人たちが呼ぶところによれば「建仁寺の学問面」……詩文芸術に優れ、五山文学の中心をなしたことにちなみます。

『尊氏と正成、後醍醐天皇は同門だったんや』

そう言ったお坊さんも、もしかすると何か学問的な根拠があったのかもしれず、あるいはそういう説を研究されている方だったのかもしれません。

もっとも、当時小学生だった私にそんなバックボーンが分かるはずもなく。(はー、そうなんだー)
と能天気に思うばかりでした。

とはいえ。

その後、さまざまなフィクションや読み物で、尊氏が正成を評価していたらしい話、両者に一脈通じるものがあったという造形はあるわけですから、何の違和感もなく、そういうものなんだと思ってきたわけです。

尊氏と後醍醐天皇との関係にしても、天龍寺という存在が何よりの物実でした。

同寺は足利尊氏が開基、彼の禅の師である夢窓礎石が開山となり、後醍醐天皇の菩提を弔うために建立されたものです。
かつて、この地には後醍醐天皇の祖父・亀山天皇が離宮を営んでいました。さらには、後醍醐帝自身もこの地の学問所で学んだといいます。

訪ねられた方はご存じと思いますが、いまでも天龍寺の多宝殿には、後醍醐帝の木像が大切に祀られています。
この多宝殿自体、禅寺の伽藍にもかかわらず紫宸殿に準じた造りとなっており、天皇陛下の御座所として相応しいものとして設えられています。

後醍醐天皇と足利尊氏は、歴史的に見れば南朝と北朝に分かれるきっかけとなった敵同士。
それを尊重したのは、当時の世間に対するアピールであったり、南朝側についた者への懐柔策であったり、という打算的な見方もできるでしょう。

一方で、打算に端を発しただけのものが、700年もの時を超える伝統になるとも思えない。
やっぱり、尊氏には後醍醐天皇を敬慕する心があった。そう思ったほうが、私としては美しいと思える。

その辺りの精神的なつながりが、じつは禅宗の人の流れとも合致にしていることに後々気づいてもいくのですが。その話は別の機会に。

天龍寺の曹源池庭園。夢窓礎石の作と伝わります


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