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【ショートストーリー】わたしの汚点

「なんだ? これ……」
 俺は引っ越しの荷物を抱えたまま、誰に聞かせるわけでもなくそうつぶやいた。

 部屋の畳の一枚が、真っ黒に汚れていた。墨汁でもこぼしたようなシミだ。
 この前不動産屋と内見に来た時には、こんなものはなかった。
 荷物を足元に置き、まじまじと汚れを観察してみる。い草の畳表をほとんど覆うように得体の知れない黒い汚れがべったりとこびりついていた。
 買ってきたばかりの雑巾を荷物の中から引っ張り出して拭ってみても、汚れが落ちる気配はなかった。

 困った俺は大家に電話してみた。
「そうですかあ。一昨日確認に行ったときには、気が付かなかったなあ」
 俺の説明を聞くとそんな間延びした返事をよこしたが、明日には業者を手配して畳を交換してくれるという。
「もしまた何かあったら、連絡してくださあい」
 最後にそう言って大家は電話を切った。早く対応してくれて助かった。まあ、彼なりに気をかけてくれているのだろう。

 というのも、この部屋はいわゆる『訳あり物件』というやつらしい。前の住人が突然蒸発してしまったとかで、以来埋まらなくて困っていた部屋だったそうだ。
 そこに、訳あって急いでこの街に部屋を借りたい俺が飛びついたというわけだ。
 さて、畳の件はこれでいったん片付いた。ガスの業者が来るまで引っ越しの続きをしよう。
 俺は玄関に置いたままになっている他の荷物を取りに行った。

 もともと荷物は多くなかったから、片付けはすぐに終わった。途中でガスの開栓作業の立ち会いも終え、引っ越しは一段落だ。
 いろいろと必要なものを買い出しに行こうと、財布の入った鞄を取りに和室に戻る。
 相変わらず、黒い汚れはべったりと畳についている。
「あれ?」
 畳に汚れは付いているのだが、さっきと場所が違う。
 さっき見た時には、入り口近くの畳だったはずなのに、今は部屋の奥の掃き出し窓の近くが汚れている。

 歩み寄って確認しようとしたその瞬間、汚れが動いた。
 黒い汚れだったはずのものが、まるで泉のようにゆらゆらと波打ち始める。外側から中央へ向かって同心円状に波紋がいくつも走り、その中心はわずかに盛り上がってきた。
 ――これは、ヤバい!
 俺はすぐさま玄関に戻り工具箱の中からマイナスドライバーを持って来て、渾身の力で畳を持ち上げる。そのまま無我夢中で掃き出し窓を開け、その畳を外へと蹴り出した。ここが一階でなければできなかった芸当だ。
 今までの人生で畳を上げたことも、持ったこともなかったが、人間というのは本能的に危険だと思うと自分でも予想がつかないことができてしまうらしい。
 掃き出し窓を閉めながら、畳がどうなったかを確認しようと覗き込んでみる。畳は地面で表を上に転がっていた。あの黒い汚れは未だにゆらゆらと動き続け、中心がどんどん盛り上がり……

 ……「なにか」が現れた。
 そうとしか言い表せないものだ。1メートルくらいの真っ黒い塊に、小さい手足のようなものが付いている。ちょうど、ティラノサウルスみたいな二足歩行の恐竜をデフォルメしたような姿だった。頭からチョコレートフォンデュみたいに湧き出す墨汁のような黒い液体を垂れ流しながら、何かを探すように前後左右に揺れていた。
 予想していなかった事態に目を離せずにいると、明後日の方向を向いていたそいつは急に体をこちらに向けた。
 ――俺のことを見ている!
 真っ黒な塊に顔は付いていないのに、なぜかそう思った。得体の知れない恐怖が全身を縛り付け、瞬きひとつできない。
 すると、そいつはどこから発しているのか、おおーんおおおーん、と妙な鳴き声のようなものを上げて歩き出した。ゆっくりと俺の部屋から遠ざかっていく。
 俺はぶるぶると震える手で雨戸を閉め、窓に鍵をかけた。台所まで走ると、シンクで顔を洗って水を飲んだ。

 なんだったんだ、今のは。
 まだ手が震えている。今まで感じたことのない恐怖はまだ体の中で渦を巻いていた。「理解できない」ということが、こんなに恐ろしいものだとは。
 買い物の予定は止めだ。無理だ。
 明日は……明日は外に出られるだろうか。

 そんなことを考えていると、鞄の中の携帯が鳴った。恐る恐るあの部屋に戻り、鞄を取ってくると電話を出した。
 嫁からの電話だった。いや、嫁ではなく、「元・嫁」になる予定の人物だ。俺はこれから、この女と離婚調停を始めることになっている。

「もしもし」

「あ、やっと出た。ねえ、裁判所に行くのって明後日だっけ?」

 聞き慣れた不機嫌そうな声に、ざりっと心を逆撫でられる。手の震えも止まった。

「ああ」

「あのさあ、やっぱりそういうの止めない? 私は離婚したいっていうあなたの申し出をちゃんと聞いたわけだし、何が不満なの?」

「不満に決まってるだろう! 必死に貯めたマイホーム資金全部ホスト通いに溶かして、それでもカネが足りないからって勤め先の社長の愛人になるなんて真似!」

 俺は流行りの言葉で言うなら「サレ夫」、妻に不貞を働かれた夫ということになるようだ。
 単に不倫をされただけならば、ここまで面倒なことにはならなかった。もしかしたら嫁を許すなんてこともあったかもしれない。しかし、この女が俺にした仕打ちはそれよりひどかった。
 この部屋に引っ越してきたのは、そんな女と同じ家に暮らすなんてもう耐えられなかったからだ。取り急ぎ借りられる、職場からそれほど遠くない物件、それがこの部屋だった。

「慰謝料は払ってもらう。なんなら裁判にしたっていいんだぞ」

「何よ、裁判って! そんなことしたって、慰謝料なんて絶対に払わないからね! なんであんたなんかにお金渡さなきゃいけないのよ!」

「……本当に、お前なんかと結婚したのが俺の人生最大の汚点だよ」

「私だって、あんたみたいなのと結婚したなんて、おて……」

 そこで嫁の言葉は途切れた。
 俺はゆっくりと携帯を耳から離し、そして床に落とした。
 なぜなら、聞こえてしまったからだ。最後に嫁が「汚点」と言おうとしたその後ろで、おおーんおおおーん、という鳴き声が。
 部屋の畳から湧き出した真っ黒なあいつの、声が。


 勇気を振り絞って嫁の携帯に電話してみたが、繋がらなかった。
 なぜ電話に出ないのか、何が起こったのか、考えるのも恐ろしい。それからはとにかく気を紛らわすために動画やSNSを眺めて過ごした。
 そうしているうち、ふと思い立って離婚の体験談を検索して読んでみた。先のことを考えたくなったからだ。
 裁判所での流れや自身の当時の状況を生々しく綴ったブログがいくつも出てくる。
 その中に、こんな投稿があった。

『八年前、夫は◯◯市に単身赴任していました。その間、毎晩華やかな場所に出かけては独身だと偽って何人もの女性と関係を持っていたようです。探偵に依頼して証拠を揃え、いざ離婚の話を切り出したとたん、夫は失踪してしまいました。本人にも言いましたが、私は本当にこの結婚を後悔しています。彼は私の人生の”汚点”です!』

 そこは、今まさに俺が引っ越してきた街の名前だった。
 気になって投稿を遡って読んでみると、単身赴任先に引っ越したときに二人で撮ったという写真が載っていた。今俺がいるこの部屋の前で、幸せそうな笑顔を見せる夫婦の写真だった。
 そこから、時系列で順に投稿を読んでいく。ブログは日記代わりになっているらしく、日々の様子が細かく綴られていた。夫の様子がおかしいこと、探偵事務所に行ったこと……そして、夫が失踪した後に部屋の様子を確認しに来たこと。
 そこにも写真が載っていた。玄関を入ってすぐの台所の床にべったりと付いた、黒い汚れが。つい数時間前までこの部屋の畳についていたものとそっくりに見える。
 汚点。失踪。黒い汚れ。自分の今の状況との共通点が見つかるたび、俺は頭の端に浮かぶ嫌な考えを必死で打ち消した。


 結局、一睡もすることができないまま朝を迎えてしまった。
 さすがに眠い。仕事は今週いっぱい休みにしてもらっているから、畳の業者が来たらその後は寝てしまおう。きっとそれがいい。
 そんなことを考えていると、インターホンが鳴った。思ったよりも早いな。
 返事をしながらドアを開けると、そこに立っていたのは業者ではなく、二人組の制服姿の警官だった。

「おはようございます。サトウダイキさん、で間違いありませんか」

「はい」

 どうして警察が?
 近所で事件でもあったのだろうかと思っていたが、警官の話は思わぬ方向へ進んでいった。

「昨日はどちらにおられましたか?」

「ずっとこの部屋にいましたけど……何かあったんですか?」

「あなたの奥様のサトウヒナさんが、昨日から行方不明だと彼女のお姉さんから警察に相談がありまして。今、ヒナさんと関係のある方々にお話をうかがっているんです。サトウさん、あなたは現在奥様と別居をしておられるということですが、理由は……」

「あ」

「どうしました? えっ、ちょっと!」

 俺は警官を押しやるように無理やりドアを閉めると、鍵とチェーンをかけた。
 警官が俺の名前を呼び、何度もノックするのを無視して押し入れに駆け込んだ。頭をぶつけながら手足をできるだけ縮めて小さくなり、中に入れてあった布団に包まる。

 だって、見えてしまったから。
 警官のずっと後ろで、のたりのたりとこちらを目指して歩いてくる、真っ黒いあいつの姿が。

 もう、わかってしまった。

 おおーん、おおおーん。
 あの鳴き声が聞こえてきて、俺は息を殺し、耳をふさいだ。
 「なにか」が、鳴いている。
 ”汚点”を真っ黒いシミに変える、得体の知れないものが。
 ――近づいてくる。





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