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【ショートショート】魔法使いの師弟と、たった一つの呪文
学生時代、介護施設でボランティアをしていたときの話だ。
そこで俺はひとりの爺さんと仲良くなった。
まさかあの人と仲良くなってくれるなんて、と職員には大いに喜ばれた。
施設内では頑固で融通がきかない、話しかけても心を開いてくれないと評判で、職員も手を焼いているような爺さんだったからだ。
しかし、なぜか俺には気さくに話しかけてきて、部屋に何度も呼ばれたし、そこでは俺の専攻や、好きな作家の話で盛り上がった。
そんな爺さんが、ある日突然
「お前、わしの弟子にならないか。魔法使いの」
と言った。
いつものように部屋に呼ばれ、今日はどの作家の話をしようかと考えていた矢先のことだ。
冗談だろうと思っていると、2m先にあるタンスの引き出しが勝手に開き、そこから紙切れが爺さんの手元めがけて飛んできた。
驚く俺にその紙切れを渡し、
「覚えるのはたったひとつの呪文。それだけでいい。そこに書いてあることを一字一句もらさず、全部覚えろ。それで充分だ。覚えたら、わしの前で唱えろ。そうしたら、お前が魔法使いだ」
と事も無げに続ける。
紙切れのことがなければ、ヘラヘラ笑って適当にその場を収めて、あとは二度とこの話題に触れないようにしたと思う。
だが、あの紙切れが飛んでくるところを見てしまうと、そうはできなかった。
心から爺さんのことを信じる、とはいかなかったが、それでも俺はその呪文とやらを覚えることにした。
なかなか覚えるのは大変だったが、しばらくして、俺はその成果を披露した。
部屋で、ベッドに腰掛けた爺さんを前に、長ったらしい呪文を舌を噛みそうになりながら唱えていく。
呪文をすべて唱え終わった瞬間、爺さんは大きく身震いした。
それとほぼ同時に、俺はことを全て理解することができた。
俺の頭の中に、爺さんの魔法使いとしての記憶が流れ込んできたからだ。
どうすればどんな魔法を使えるのか、どう普通の人の中で生きていけばいいのか――
――そして、老いたらどうするのか。
ちょうどこの頃、施設の職員から爺さんの認知症が進行してきているという話を聞いていた。
記憶が混乱することが増えた、四点杖を持ち上げて意味が理解できない言葉を口走るようになったと。
今、爺さんの記憶をそのまま見ている俺にはわかるが、それは爺さんが魔法を使おうとしたのだ。
記憶が混乱し、理性が揺らいだ瞬間に、つい口をついて出てしまった、使うつもりのない呪文。
それは、あってはならないことだった。
そう、たったひとつの呪文は、魔法使いとしての記憶と知識を引き継ぐためのものだったのだ。
これが終われば、爺さんは魔法使いとしての力と記憶は全部失う。
でも、自分の意思と理性で魔法を扱えなくなったら、誰かに魔法を持っていってもらわないといけない。
若い頃に持っていた力に固執せず、静かに暮らすために、力を持っていたというその記憶ごと、誰かに引き継がなければならない。
ただの人として、過ごすために。
だからこの呪文があるのだ。
今の俺には、その知識がしっかりと移し変えられていた。
すべての記憶の移し変えが終わる直前、爺さんは
「達者でな」
と笑った。
はじめて見る笑顔だった。
そして、俺の「師匠」としての最初で最後の言葉だった。
俺は、笑顔で
「師匠もね」
そう、返したのだった。
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大昔に書いたものに一部蛇足的加筆。
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