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【短編小説】骨まで凍る(5)

「嘘、だろう」
 山下やましたさんの声だった。
 その声で俺は少しだけ冷静を取り戻し、かろうじて声がした左後ろへ首を回らすことができた。
 彼は目を真ん丸に見開いて、背負子から取ってきたカメラを手に立ち尽くしていた。
 あの場所から戻って来るなら、それほど時間はかからなかったはずだ。きっと、俺が見せられていたものを彼も見たに違いない。彼もこの異様な光景に恐怖して、動けずにいるのだろう。
「山下さん」
 あの光景を目にした人が他にもいると思うだけで気持ちに余裕ができたのか、俺は声を出すことができた。
 だが、彼から返事がない。
「山下さん?」
 もう一度呼んでみたが、彼は応えなかった。こちらに視線を向けることもしない。その視線の先にいるのはあいつだった。
 再びあいつに目をやると、あいつも俺ではなく彼を見ていた。あの薄気味悪い笑みを浮かべ、まるで自分の元へ招くかのように手を伸ばしている。
 すると、彼の方から物音がした。手にしていたカメラが落ち、足元に転がったのだ。しかし彼は一切動かない。カメラを落としたことに気づいていないようだった。それほどあいつにすっかり魅入られてしまっているらしい。
 俺が声をかけようとしたそのとき、あろうことか彼はあいつの招きに応じるように歩き出した。

「山下さん!」
 あれほど動かなかった体が驚くほど軽やかに動いた。俺は山下さんに駆け寄ると、腕を掴んで歩みを止めようとした。
 だが、彼の動きは止まらない。俺が力いっぱい腕を引くのをものともせずに、あいつに向かって歩き続ける。仕方なく、俺は彼の前方に回り込んだ。正面から組み合うようにして進路を阻もうとしたのだ。

 すると、山下さんがぶつぶつと口の中で何かつぶやいているのに気がついた。はじめは言葉として聞き取れなかったが、何度も聞くうちに言っていることがわかった。
 彼は繰り返し同じことをつぶやいていた。『いぶき』。それは彼の子供の名前だ。重い病気で、幼くして亡くなってしまったと彼から聞いていた。
 なぜ今その名前が出てくるのかはわからないが、嫌な予感がする。
 俺は踏ん張る足にいっそう力を入れ、その体に抱きつくようになりながら彼を必死に止めた。しかし、毎日の山歩きで鍛えられた膂力は想像以上に強い。体格では俺のほうが勝っていたが、明らかに力では彼に分がある。
「ダメです! 行っちゃダメだ!」
「どいてくれ! あの子がいるんだ! あそこに!」
 彼が悲痛な声を張り上げた。あいつを熱のこもった瞳で見据え、子供の名前を繰り返し呼んでいる。
 そこでようやく気がついた。始めはどうして今ここで子供の名前が出てくるのだろうと思っていた。それは、「あの子がいる」から、つまり彼はあいつを自分の子供の名前で呼んでいるのだ。
 ということはまさか、彼にはあいつが亡くなった自分の子供に見えているというのか?
 しばし鳴りを潜めていた恐怖が、再び心の中に湧き出してくる。その瞬間に力が緩んでしまったのを、彼は見逃さなかった。ものすごい力で俺の両腕を掴んで引き剥がし、投げ倒すと、一直線にあいつの元に歩いていく。

「ダメですって! お子さんが亡くなったのって40年前なんでしょう? それに! お子さんは、いぶきちゃんは、女の子でしょう? あいつは……あいつは!」
 俺は引き倒され地面に四つん這いになったまま、山下さんの背中に向かって叫んだ。
 子供の話を聞いた時に一緒に見せてもらった写真には、千歳飴の袋を手に提げて微笑む、赤い着物姿の女の子が写っていた。「誰にでも優しい、本当に自慢の娘だったんだ」と写真を見つめる瞳がとても優しかったのをよく覚えている。
 もちろん、写真で見た彼の子供は向こうで手招きをしているあいつとは似ても似つかない。それに、俺にはあいつが人間とは思えなかった。あいつは、触れただけで動物を凍らせた。人間には到底不可能なことをしてみせたのだ。万が一触れてしまったら、人間だってどうなるかわからない。
 それでも、山下さんは歩みを止めることなく進み続けた。手を伸ばしながらあいつに近づき、その指先が触れ合おうとしている。

「クソッ!」
 とにかくあいつを山下さんから引き離すことで頭がいっぱいだった。
 俺は投げ倒されて地面に這いつくばった格好のまま、腰のベルトに下げていた止め刺し用のナイフに手をやった。今日のために買った、刃渡りが包丁くらいある大型のナイフだ。
 そして、ナイフをベルトからレザーの鞘ごと外すと、俺はそのまま全力であいつめがけて投げつけた。何か物を投げつければ、あいつが避けるか逃げるかするだろうと思ったのだ。
 ナイフは奇跡的に真っ直ぐあいつに向かってゆく。予想を裏切って、ナイフはそのままその薄笑いの顔面へと吸い込まれていった。
 すると、ナイフが当たった瞬間、あいつの姿が煙か霧のようにさっとその場からかき消えてしまった。ナイフはそのままあいつがいた場所を通り過ぎ、その後ろにあった木に当たって地面に落ちた。
「消え……た?」
 肩透かしを食らったようだった。あれほど恐れていたあいつが、俺のやぶれかぶれの一投で呆気なく消えてしまったのだから。
 またしても予想外で不可解な事態に一瞬思考が止まりかけたが、俺は慌てて立ち上がると彼の元に駆け寄った。

「山下さん! 大丈夫ですか? 怪我は?」
 山下さんは自分の左手で右手を覆うように掴んで、その場に立ち尽くしていた。指の間から真っ赤に腫れ上がった右手が見える。見るからに痛そうだが、彼は放心したように先ほどまであいつがいた場所を見つめていた。
「それ、医者に見せたほうがいいと思います。病院に行きましょう」
 俺の言葉に彼はゆっくりと頷いた。

 俺は辺りを慎重に確認しながらナイフを拾いに行った。
 あいつは文字通り影も形もなく消えていた。あいつがいた場所には足跡もなく、ただ凍りついたキジの死体が横たわっているだけだった。そのことは努めて深く考えないようにしながら、俺はナイフを拾った。
 ナイフをベルトに戻すと、今度はイノシシにかけられたくくり罠のワイヤーや踏み板をすべて回収し、地面に落ちたままのカメラを拾ってから、二人分の荷物をどうにか持った。 
「さあ、行きましょう」
 俺が背中に手を当てて促すと、彼は右手を押さえたまま素直に歩き出す。
 その足取りは重かったが、彼が自分で歩けることに安心した。
「いぶき、ごめんよ」
 歩き出す前、最後に彼が力なくそうつぶやいたことには触れないまま、俺は彼を連れ、来た道を戻っていった。

(続く)


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