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【短編小説】骨まで凍る(4)

 イノシシから視線を逸らし、木々の向こうに目をやると、視線が合った。
 山下さんではない。別の人間とだ。木の陰に隠れていたのか、それまで存在に全く気づかなかった。
 青のスタジャンと黒のズボン姿のその人間は、体つきと背丈だけなら小学生くらいの男の子に見えた。しかし、顔がその体格に釣り合っていない。大きすぎるのだ。子供の体に大人の男の首を乗せたような、なんともバランスの悪い容姿をしていた。顔つきも明らかに子供のそれではなく、そこだけ見れば40代くらいに見えた。

 視界に突然予想もしないものが現れたうえに、その奇妙な見た目に驚いてしまって、俺は釘付けになって相手を凝視していた。
 その人間は左腕に自分の身長と同じくらい大きな雄のキジを止まらせ、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべてこちらを見ている。
 俺がまばたきひとつできずにいるのを見て取ると、その人間は意味ありげに俺の目を見つめてから右手をキジに伸ばした。
 青白い小さな手がキジの首に触れた瞬間、辺りに短く甲高い鳴き声が響き渡る。キジは大きく頭をのけ反らせ、そのままの姿勢で動かなくなった。
 続いて、その人間はキジの首を掴んで自分の顔の高さまで持ち上げた。その顔に貼り付けた薄ら笑いは一切崩れていない。そして、「見てろよ」とでも言わんばかりにこちらに視線をやったかと思うと、キジの首を掴んでいる手をぱっと離した。
 キジは頭をのけ反らせた姿勢のまま、一直線に地面に落ちた。その拍子に、あの特徴的な長い尾羽が付け根の辺りからぽっきりと折れた。それでもキジは鳴き声ひとつ上げず、そのままの姿勢で横たわっている。
 ついさっき、あのイノシシの足が折れた時の光景が頭をよぎる。目の前で今起こったことは、さっき見たあの異様な光景と恐ろしいほど似ていた。

 俺は音がしそうなほど歯を食いしばった。目の前で起こったことに驚くあまり、体に変な力が入って、声を出すこともできなかった。
 これはどういうことだ?
 目の前にいるあいつは、普通であれば曲げることができないはずの自然の法則をやすやすと曲げてみせた。しかも、およそ普通ではない方法でだ。
 あのイノシシの不可解な様子だって、今見せられたことを当てはめれば簡単に答えが出てしまう。だが、それならば新たな疑問が出てくる。
 ――いったい、あいつは何だ・・・・・・・・・・・

 視線に気づいて顔を上げると、薄ら笑いのあいつはキジの様子には目もくれず俺のことを見つめていた。
 俺の注目が自分に戻ったと気づいたのか、その薄笑いがひときわ大きくなる。生理的に嫌悪感を覚える、嫌な笑みだ。
 イノシシを見ていたときから心の中に巣食っていた恐怖が一気に全身を包む。体の中いっぱいに氷でも詰め込まれたかのような猛烈な寒気が体の内側から沸き起こって、頭の天辺から爪先まで広がる。体のあちこちに鳥肌が立って、皮膚が縮む嫌な感覚がする。
 ――理解できない。恐ろしい。どうしたらいいのかわからない。怖い。
 目の前で見せられた異常な光景を理解できないこと、あいつがそんなことをする理由も仕組みもわからないこと、あいつがこちらを見て笑っているのが何を意味するのかわからないこと。何ひとつとして理解できない。それが恐ろしくて仕方ない。
 「理解できない」ことにこれだけ恐怖を抱くのは、人が「理解」を支えにして安心や安全を得る生き物だからだ。それは原始の時代から、不可解な現象を解き明かした結果を知識として蓄え、共有することでさまざまな不安や危険から生き延びてきた遺伝子の記憶がそうさせるのだろう。
 今の俺はその支えを全て取り払われたようなものだった。「理解」という支えを失った先にあるのは、底なしの恐怖と危機感だった。

 力を入れすぎて、歯がガチガチと震えだす。開きっぱなしだった目には涙が滲む。だが、全身が凍りついたように動かない。いや、動けないのだ。
 生まれて初めて経験する特大の恐怖に押しつぶされそうな、その時だった。


(続く)


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