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【短編小説】骨まで凍る(9)

「……へっくしゅん!」
「やだ、大丈夫?」
 玄関先で盛大にくしゃみをした俺の声が聞こえたのか、妻の美咲みさきが洗面所から顔を出してそう言った。
「今日は冷えるな。骨まで凍りそうだ」
「骨まで凍るって、なにそれ」
 美咲が歯ブラシを手にしたままおかしそうに笑った。


 初めての狩猟に行ったあの日から、もう5年の月日が経っている。
 その間に、俺の生活には色々と変化があった。その最たるものが美咲との結婚だ。

 美咲と知り合ったのは、初めて猟師として山に行ったあの日から3ヶ月ほど後のことだ。
 ある日、俺は役場から依頼された町の魅力をPRするフリーペーパーの取材を引き受けた。てっきり役場の職員が来ると思っていた取材当日、家にたった一人でやって来たのが美咲だった。
 いきなり同世代の女の子が大きなカバンと一眼レフを持って玄関に立っているのを見た時には、何が起きたのかと慌ててしまった。
 動揺する俺に、美咲は「すみません、説明不足でしたね」と頭を下げてから、自分が地域おこし協力隊として活動していること、タウン誌の編集者だった自分の経験を活かして町からの委託でフリーペーパーを作成していることを丁寧に説明してくれた。
 取材は打ち合わせからインタビュー、写真撮影まで美咲が手際よく進め、スムーズに終わった。その後に世間話をする中で、同い年であることや、美咲のほうが移住者としては先輩であることを知った。

 そんな共通点をきっかけに、お互いに興味を持った俺達はそれからもプライベートで連絡を取り合うようになった。いつしか移住後初めての友達は恋人になり、結婚したのは今から3年前だ。
 山下やましたさんには仲人をお願いした。仲人を依頼しに行った時にも飛び上がるほどに喜んでくれたが、結婚式当日には俺達の両親や他の参列してくれた誰よりも号泣しながら祝福してくれたのはいい思い出だ。


 狩猟は今でも続けている。けれど、移住した当初に思い描いていたほどには『自然を感じる暮らし』はできていない。
 4年前からは、猟友会の勧めで捕まえた獲物を町の加工処理場を通じて何軒かの飲食店に卸すことになった。だが、まだまだ思ったように獲物を捕まえられずに、注文された量を確保できないことが多い。道具だけは一流の猟師のものを受け継いだが、それを使う俺の技術と知識が追いついていないのだ。
 だから、俺は結婚直後から移住前の仕事だったウェブデザイナーに復帰した。今はフリーランスとしてネット上で仕事を受けたり、前の会社のつながりで仕事を振ってもらうことでどうにか安定した生活を保っている。
 こちらの仕事のほうが立て込むこともあって、農業には結局手を出せていない。せっかく移住とともに意気込んで借りた畑も、持ち主に返してしまった。

 こういうライフスタイルになったのは、美咲と結婚したことが大きい。  
 自分一人ならば、多少生活が不安定になっても狩猟と農業だけで暮らしていこうと思っていたが、そうも言っていられなくなったというのが現状だ。



 今日は山にシカ猟の罠を仕掛けに行く。以前から懇意にしてもらっている東京のフランス料理店から注文が入ったのだ。
 まだ今年の猟期は始まったばかりだが、俺はこれを最後にしばらく猟師を休業しようと思っている。なぜかというと、しばらくの間はそれどころではなくなりそうだからだ。

「今日は本当に冷えるから、美咲も体冷やさないように気をつけて。すぐ帰るようにはするけど、もしなにかあったら……」
「大丈夫だよ、もう安定期に入ってるんだから。それに、今日は山下の奥さんがお昼から編み物教えに来てくれるから、心配しないで」
 美咲が玄関まで出てきて、ピンクのふかふかのパジャマ越しにふっくらと優しい曲線を描いた自分のお腹を撫でた。
 そう、俺達は子供を授かっていた。
 美咲は今妊娠6か月だ。一時は死んでしまうんじゃないかと心配するほどだった重いつわりもようやく治まり、今みたいに笑顔を見せてくれることが増えてきた。
 この前一緒に行った産婦人科の診察で、お腹の子は男の子だと教えてもらった。その日から、美咲はベビー服やベビーグッズをせっせと準備している。編み物もその一環だろう。
「そっか。山下の奥さんが来てくれるなら安心だ。奥さんによろしく言っといて」
「うん」


(続く)


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