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[小説] 氷 空を翔ぶより大切なこと 15


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第十五章  その電話は


 ──もう道には迷わねえよ!
 あれって今日の帰り道の話ではなく、もう迷わず幸奈に向かって突き進むってこと? 私に近くにいてほしいのはただの冰晁ひあさ対策なんだね。
「何を考えてるんだか……」
 飛翔くんではなく、そう発想した私が。だいたいただの冰晁対策だとわかりきっていたではないか。残念ながら私はまだまだ彼を意識しているらしい。
 小雨が降り始めた。マンションに着いた私はベッドに横になり、壊して捨てる予定の白銀色のカードを顔の前にかざしていた。私が持っているナイーブアプリのカードには赤く「ヒトヲウカバセラレル20」と刻まれており、飛翔くんのは「ヒトヲケセル1」である。
「でも、これって──」
 この書かれたことを起こせるアプリをそのまま、例えば元あった場所に捨てたらどうなるのだろう。法律に違反するのは間違いないけれど、何だかそういった人間を支配する次元は超越した存在のような気がして、森を汚す以外の結末が待っていそうだった。
 私はベッドの上で身体を起こす。
「まあ、アプリとコンピューターがなくても飛んじゃう山国一族とか、冰晁も私の脳波も、別次元かもしれないけど……」
 なら飛翔くんと冰晁の結末は?
 わからない。
 しかし明らかなのは、今はまだ引っ越せないということ。だからお父さんを引き止めねばならず、決断する前に事情を話す必要がある。私は飛翔くんの苦悩を洗いざらいしゃべってしまうのだろうか。
「うわっ、何?」
 雨の音が突然うるさくなった、こんな予報出てなかったのに。
 私は雨戸を閉めようと立ち上がり、アプリのカードを机に投げる。お父さんの帰り道が心配になってきた。森では西から吹いていた風が舞ってざざざざあと南向きの窓に当たっており、風の力学が変わる瞬間をねらって窓を開ける。風との駆け引きだ。
 そうだ、お父さんと駆け引きするのはどう?
 重い雨戸を閉めながらひらめいた──瞬間、どらごらごがんっと雷が落ちる!
 ひいいぃっ、いきなり、最初の光が落ちるって……、
 そのとき隣の子供たちの悲鳴は聞こえたが、一瞬宙に浮いた私からは涙しか出なかった。高校生にもなって情けない奴。その後も雷鳴は続き、他の部屋の雨戸を夢中で閉め終えて大きなため息をついた。
「冬の終わりの雷は、メロン畑を準備する合図だっけ?」
 キマリナメロンのことは考えたくないのに。
 私は代わりに飛翔くんの抱える問題、お父さんとの駆け引きに頭をひねる。冰晁の話を先にして引っ越しを待ってもらうより、引っ越しを待つと約束してくれれば事情を話すと駆け引きしたほうがいいと思う。最悪男友達の体温なんかで引っ越しを待てるかと突っぱねられる危険を取り除けるから。結局洗いざらいってことにはなるけれど、お父さんはそういう娘との約束は破らない父親だった。
「私が真剣に訴えなきゃ、だめだけど」
 自分の部屋に戻った私は、駆け引きに持ち込むにも何かが必要だと考え始めていた。どうしよう──あっ、そうだ。
 机の上を見て気がついた。捨てるつもりの私のアプリをお父さんに研究材料として差し出すのはどう?
 私と飛翔くんにうわさを教えた張本人だから、お父さんもナイーブアプリの存在は知っている。ただ私たちの手にアプリのカードがあることは秘密にしてきた。実物は見るのも初めてだろうし、エンジニアの血が騒いで駆け引きにあっさり応じてくれるに違いない。
 雷も雨も静かになってきた。私は白銀色のカードを再び手に取って今度は電気の下にかざす。飛翔くんの言う「特殊コーティング」なのか、左上の縁がかすかに白くきらめいた。もうカード自体の蒼く赤い発光ではない。
 ところで、より危険な彼のアプリまで暴露してあとで彼に怒られてもかまわないのだが、たぶんそこまで話す必要はないと思うし、事態がややこしくなるだけか。ただ彼もアプリは捨てると決めたのだから、私のアプリに関しては奪われてもいいはずである。
「おーう、ただいまー」
 玄関で音がして、たぬきのお父さんが帰ってきた。
「おかえりなさい! 雷どうだった?」
 食堂に出ていって訊ねると、困ったような疲れ顔が現れた。
「ああ、用があった役場を出たときはまだ鳴ってたけど、今は大丈夫だ。雨もやみそう」
「役場って、まさかもう引っ越し決めちゃったの?」
 どきりとして確認する。お父さんは「いやいや、打ち合わせだって。仕事」と顔の前で手を振った。
 何だ、良かった。しかしついた勢いは抑えられない。
「お父さん、ちょっといい?」
 私は視線を落とし気味にかしこまり、お父さんの正面に立った。
「どうした、引っ越しのことか? まだ何も決めてないんだが──、違う? まあ……お腹すいちゃって、ご飯のあとにしようか」
 私があっけなくもじもじ言葉を出せなくなったせいか、お父さんはとまどってお腹も鳴り、相談より晩ご飯が先になる。今日は冷蔵庫から出してあたためるだけで、おかずの皿にはメロンではなくリンゴが並んでいた。
「私、あの──、お願いがあるんだけど」
 話がはずまない食事のあとで食器を洗い終えた私は、緊張で乱暴に手をふきながら振り向いた。座ったまま新聞に隠れたお父さんがいる。娘のために恥ずかしがらずに生理用ナプキンを買ってきてくれる父親である。
「ああ、どうしたんだ」
 新聞を下ろし、ほほ笑みが返ってきた。
「ええと私、今朝、引っ越しはまだ決められないって言ったけど……、少しの間引っ越し、待ってもらっていい? それを約束してくれたら、ちゃんと事情を話すから」
 私がひりひりする駆け引きを始めると、お父さんは狐につままれたようにきょとんとなった。
「あ、え、何だ、朝は逃げるように出てって──、学校で気持ちがまとまったのか?」
「それは、あの……」
 今朝の死へと誘われた氷のベランダや学校まで逃げている感覚が消えなかったことを思い出した。
「まとまったっていうと違うけど、すぐに引っ越すのは難しい理由が出てきちゃって……。だから、その事情を話すのを条件に、引っ越しを待ってほしいの」
 私はまだこの町にいなければならない。飛翔くんは「俺の近くにいてほしいんだよ」と声を震わせていた。彼のために──。
 お父さんは新聞をたたみ直してほほ笑む。
「おう、メロンへの影響なんかより俺が大切なのは岬のことだ。引っ越しの話はまだ何も進んでないし、無理に急ぐつもりもないぞ」
「だけど、けっこう待ってもらうことになるかもしれないから……」
 何だか駆け引きなしでも待ってくれそうだが、やめようとは思わなかった。
「そうか。まあわかったから、話を聞こうか」
 ちょっと、お父さん笑ってて私の訴えを深刻に受け止めてないんじゃないの? 娘の脳波が引き起こす問題以上の事態を思いつけないのはわからなくもないけど、こちらもあなたの娘の脳波が引き起こす問題で、しかも娘と同じ十六歳の子の健康に関わってるんだよ。
 真剣になってほしい私はお父さんの隣の椅子に座り、下から強くにらみつける。
「お父さんっ、今私が心配してるのはとっても大変なことなの。だから真剣に答えて。どのくらいになるかわからないけど、引っ越しを待つと約束してくれればその事情を話すから、約束するかしないかちゃんと選んで!」
「おお……、そうか、そうだな──」
 お父さんの顔色が変わった。私は切り札となる白銀色のカードがあるパーカのポケットに手を入れて待つ。
「…………」
 お父さんが声にもせずに悩んでいるのは迷いではなく、軽々しく決められないだけだと私は信じたかった。体温であたたまる前につかんだカードが指の汗ですべり、
「何だ、どうした?」
 再びつかみにいった右手に気づかれた。
 ああもうっ、いいや!
 私はカードを引き出してお父さんに突きつけ、
「これ! 人を浮かばするれるア……」
 今度は正しく言えずに止まってしまった。
「ア──プ、リ、ナイーブアプリか!」
 背の高いお父さんははっと身をかがめ、「これは本物なのか?」と厳しいところを問うてくる。どうして持ってるのか、どこで見つけたかは訊かないらしい。私は不安になりながら答えた。
「あの、これ、人間の体温にふれるまでは不思議な色に光ってたの。赤とも蒼ともいえる、どちらでもない弱い光が出てて……」
「なるほど、確かに俺が知っている通りだが──、刻まれた文字は『ヒトヲウカバセラレル20』か。コンピューターは、見つけた?」
 私が黙って首を横に振り、逆に「でも、研究材料にしていいから」と言ってナイーブアプリをさらに前に出すと、お父さんはやっと私の意図に気がついたようだ。
「ああそうか、わかったわかった。これをあげるから約束してくれってことだな?」
「そう……、です」
 瞳の奥をのぞき込まれてごくりつばを飲む。お父さんはほんの数秒目を瞑ったあとで私からアプリのカードを受け取り、
「うん、よし。約束する! 引っ越しは岬の準備がちゃんと整うまで待とうじゃないか。メロンは不作になっても、前だって盛り返したからな」
 そう言ってくれた。
「──ありがと」
 私は緊張でぬれた両手を下ろしてデニムの膝をつかむ。発電所で付いた汚れを目にし、それよりと大きく息を吸った。
「ええとその、実は……、すぐに引っ越せない事情はね、山国飛翔くんのことなの」
「ああ、山国君か。あの一族の」
 さすがにお父さんも覚えている。養子の話はしなくていい。
 私はそっと顔を上げた。
「うん、そう、一組の。でも飛翔くんね、これは私と飛翔くんの間で話して、間違いないと思ってることなんだけど──」
 そのときだった、電話が鳴ったのは。
 私が何の恐怖か聞き慣れた「るるるるる」に肩でぞくり、鼻までつんとさせているうちに、お父さんが「はい、初海ですが」と普段通りに電話に出た。
「──おお、澤山さわやまか。どうした」
 少しの間をとって私に背を向け、どことなく喜びの色を含んだ声に変わる。
「うん、うん……。なにっ、本当か!」
 そう驚いてからのお父さんは一気に会話に吸い込まれ、「紫外線」、「ジュラルミン」、「含有がんゆう率」、「クロマトグラフィー」など仕事の用語を連発していく。私は独りやけにどきどきして終わるのを待った。呼び出し音と同じで、私はこの電話を理由もわからず怖がっていたのかもしれない。
「そうか、なるほど。明日は俺も研究所行くからな、すぐ試してみたい。いやあこっちでもさ──」
「やめてっ!」
 とっさに叫んでいた、叫んでしまった。お父さんの「いやあこっちでもさ」を聞いて自分の話だと気づいたのだ。
「え……っ、おう、わかった」
 お父さんはぎょっとして振り返り、私の話をやめてくれる。そして再び広い背中を見せ、「ああ、何でもない。それで次だけどな?」と電話に向かってしゃべりだした。
「まったくもう……、油断もすきもない」
 ため息をついた私は残り最後まで後頭部でもにらんでいようかと思ったけど、途中で疲れて耳にすべてを任せ、テーブルに伏せて待つ。私の視線も脳波と同じように、お父さんには何の影響も与えないのだから。
 ところで、猫耳が完全に壊れてからの一日、私はあの朱鞠内がそばにいた日々を求めて過ごした。朱鞠内を必要としていた。しかし朱鞠内が私の元にあるとは猫耳が直ることを意味するわけで、それを望むなんて飛翔くんには言えない感情だった。
 とはいえ猫耳は直らないから、私がどう思おうと冰晁に影響はなかった。
「──し、ほら岬、電話終わったぞ!」
 声にはっと顔を上げて視界のもやもやが晴れると、お父さんの笑顔がはじけている。
「何かあったの?」
 私は不思議がって訊ねた。お父さんは今の電話がよほどうれしい連絡だったらしく、喜びをかみしめて「いやあそれが本当にまた……」となかなか教えてくれない。変なの。私は話のとっかかりを何とか探し、
「明日、休みだけど研究所行くんでしょ?」
 と言ってみた。
 ところが、電話の内容は私には聞きたくない事実だった。
「ああ。いやあ良かったぜ、早くも壊れた猫耳に使う代わりの素材が見つかったぞおっ」
 え──、何を言ってるの?
 状況が理解できない。
「なあ岬、俺も半分あきらめて引っ越しを考えてたんだけどな、澤山の奴がすぐに見つけてくれたんだ。あっ、澤山ってのは俺の優秀な部下だ。ああそれくらいわかるか、ははは……。別の仕事もあるから一週間はかかると思うが、まあとにかく良かった」
 お父さんが浮き足立っている。思わず腰を上げた私は手の甲を爪でつねり、やっと今の自分に降りかかった事態を整理できた。
「──お父さん、猫耳、直っちゃうの?」
 猫耳の壊れた素材に代わりが見つかった。猫耳が直れば「ママ代わり」の朱鞠内とまたおしゃべりができてうれしいはずだけど、その前に飛翔くんがいる。私は悪魔になりたくなかった。
「岬、どうした? ああ、山国君のせいですぐに引っ越せないんだったな。でももう引っ越す必要はなくなったんだぞ!」
 お父さんは喜びすぎて忘れたかと思ったら、あっさり私との話を思い出した。しかも「山国君のせい」だなんて、飛翔くんはメロンとお父さんの被害者なのに──いや、加害者は冰晁の原因か。
「そう……、猫耳が直って朱鞠内が復活するんだったら、話はなかったことにして」
 私は飛翔くんの話を取り消して部屋に逃げ込む。自分が怖いくらいに沈んでいるのがわかった。
 彼の不幸を打ち明けたほうがいいかもしれない、と机の前で思う。戻って話す? 直す気満々のお父さんは、このまま私が黙っていればいずれ猫耳を直してしまう。しかし私は振り向いただけで、食堂には戻れなかった。
 もし冰晁の恐ろしさをお父さんに話したらどうなるだろう。お父さんが直すのをためらえばこれまで通り直らないのと変わらないけれど、知ったことかと突き進めば話さないのと同じである。何だかさっきも考えたエンジニアの血が騒いで直す可能性が高い気がする、私は二度も身震いに襲われた。
 ああもうっ、こんな哀しい運命はいらないのに!
「──痛っ」
 椅子の背もたれを殴って自分の右手を痛めつけ、冰晁はもっとつらいじゃないかとうずくまってうなり声をあげる。
 ばかみたい……。
 それから孤独な夜を、金曜日だしお父さんが眠りにつくまで悩んだ私は、今はまだ冰晁のことを隠す道を選んだ。お父さんに打ち明けるという戻れない決断は危険で怖かった。
 ただ、一番苦しい人の知らないところで物事が進んでいてはいけない。飛翔くんに、猫耳が直ると告げなければ。


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