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僕は、映画から逃げられない。

久しぶりに映画館で映画をみた。

LGBT +を題材に扱った映画、“ミッドナイトスワン“の、15分にわたる予告編を見たのが昨日。

その予告編のコメント欄が「この映画は素晴らしい」とか「3回見に行きました」といったコメントで溢れていて、これは、と思って翌日のチケットを取った。

共感性羞恥の強い僕にとって、その映画を映画館で見ることは、ちょっとした挑戦だった

なぜなら、予告編で登場した、女の子が羨ましそうにバレエ教室の中を覗くシーンとかが、自分にとって「怒鳴られやしないか」とハラハラする瞬間で、2時間も耐えられるだろうかと言う懸念があったから。

映画館に足を運び、30分たった僕は、
「もうここから逃げられない」
と腹を括った。

僕はただ、その映画に向き合うしかなかった

いつもはちょっと辛いと感じたらダブルタップで飛ばしてしまうシーンも、一瞬たりともスクリーンから目を逸らすことを許してくれなかった。

スクリーンの中で表現されている登場人物の、自らの性ややりたいこと、やりたいと思ってもできないこと、ついしてしまうこと、そして自分の人生と向き合う中で生まれてくる葛藤と、

映画が進むにつれて徐々に徐々に変化していく登場人物の表情、顔つき、性格、そして生き方から、
僕は目を逸らすことができなかった。

スクリーンの中で葛藤し、衝突し、苦悩し、そして自分を探しながら毎日を生きていく姿から目を逸らしてはいけないと、体が動かなかった。
目を逸らしてしまえば、この映画によって変化するであろう自分自身からも、目を逸らしてしまいそうだと感じたから。

無意識に自分の中に刷り込まれた、薄っぺらい、吹けば飛ぶような観念から生まれた、しかし自分を自分に一生懸命に生きさせなくする自己承認欲求その他全ての存在と、
その向こう側に、それでも自分これがしたかったんだな、こういうことが好きだったんだな、本当は、こうありたかったんだなという、今では半ば手を届けることを諦めてしまったような自分のありたい姿、生きたい姿を感じながら、その映画を見ていた。

物語の終盤で、女の子が白鳥を踊っている時、僕はずっと
「どうして」
と問いかけていた。

どうしてそんなに美しく踊ることができるのか。
どうしてそうも苦しみながら生きることができるのか。
どうして激しく自分という全てをぐしゃぐしゃに踏み潰してしまうような激しい感情と、手足を繊細に伸ばし、折り曲げながら、美しく滑らかな白鳥としての自分を共存させることができるのか。
どうしてそこまで、白鳥であることに拘るのか。

僕は、スクリーンの向こう側の白鳥と、自分自身を見比べながら、
自分から逃げているという事実から逃げない、逃げられないんだと気がついた。

毎日たくさん練習できて、才能があって、体が柔らかくて、
ある種の天賦の才があった女の子のことを表現した映画だったんだなと結論づけることも、ある意味では出来たのかもしれない。
でも、スクリーンから目を背け、立ち去ることができなかった僕に、
その映画は、「お前は逃げてはいないか?」と何度も問いかけてきた。

希薄な人生を送ることはできる。
その希薄さからも目を背けて、本当に問うべきだったことを忘れて、
それが変化だ、大人になると言うことだ、と言い訳をし、それをいつからか本音としてすり替えて生きることはできる。

でも、僕はこの映画から、
自分が欲している自分という像をまだ持っているうちに、
その像から逃げるべきではないということ、毎日を命を懸けて生き、
一歩一歩近づくべきなんだ、と自分に迫り、訴える何かを感じた。

僕は、この映画から逃げるということをしなかった。

しっかりと、最初から最後まで、共感性羞恥を恐れ感情移入を避けることなく、登場するひとびとの表情とその変化から目を逸らさずに、
むしろその変化を切望し、なんとか前に進んでくれと願いながら、映画を最後まで見ることができた。


最初はうまく踊れないかもしれない。
憧れた、一曲を踊り切るという以前に、基礎の形を何度も反復しなければいけないかもしれない。

それでも、自分の描いたものから逃げることなく、
自分が描いたという事実からも逃げることせず、
ただ向き合うことでしか、前に進むことはできないのだな、と腹を括った2時間だった。



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