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母のこと(一)|エッセイ(全文無料)

 母はきつい女だったが、半面、愛情深い女だった。
 私はひとり息子で、私が生まれてから、母が死ぬまで、とにかく母に溺愛されて過ごした。
 母は2021年、七十代で死んだ。死因は食道がんだった。死んだ時は入院していて、新型コロナウイルス感染症の対策のため、私は死に目に会うことができなかった。
 母は私にとって最後の直系尊属だった。母が死んだ時、私がもろもろ手続をした。だから当時はその忙しさに取り紛れ、いっとき悲しみを忘れたが、その後落ち着いたら、やっぱり悲しかった。
 今さらながら、ちょっと書き残しておこうと思った。
 記憶の鮮明な最後の方から書いていって、思いつくままに触れ、気力の続く限りさかのぼっていくことにする。


その1 母の死とその前後

ひとつ前の大腸がん〜肺への転移

 母は死因は食道がんだったが、その前に、大腸がんを患った。
 大腸がんの診断を受けたのは、死因である食道がんの診断を受ける5年ほど前のことだった。

 大腸がんの診断を受けた時、当たり前のことだが、母はショックを受けていた。
 母は、悪いかもしれない結果のふたをあけて見ることに、勇気がいるタイプの人間だった。もちろんこれは誰にもいえることだ。私だってそうだ。それでも私などは、たしかに結果を見るのは怖いけれども、知らないままでは何も始まらないから、勇気をもって早く知って、悪ければいったん落ち込んで、なるべく早く次に進むべきと考える方だ。それに比べて母は、やっぱりそうは考えず、悪い結果を目の当たり見ることが怖くて、結果を知ることを後回しにしがちだった。
 この大腸がんの検査結果を聞いた時も、勇気が要ったことだろう。

 ところで母は、その父親、つまり私の祖父を、がんで亡くしている。祖父は肝がんで、六十代で死んだ。私のだいぶ幼いころだった。このことから、母はがんには気をつけていた。それで大腸がんも発見できたのだったと思う。

 この大腸がんは、さほど早期発見というわけでもなく、気軽にとらえることはできなかった。
 また、当時私たちは家族で暮らしていたが、この大腸がんのころは、私が仕事上、何か月も家を離れた時と重なっていた。
 がんに加えて、かわいい私の顔が見られないのだから、母は大変寂しい思いをしていたに違いない。
 私の出発前か、一時帰宅した時だったか忘れたが、何か月かおいて、何枚か、ふたりで一緒に撮った写真画像が残っている。私が冗談を言って母を笑わせた記憶がある。母はこれら写真の中で、いつもの写真用スマイルに一段加えた、自然な笑い顔を見せている。

 この後、母は大腸がんを大腸から摘出した。これは成功に終わった。

 その後、肺への転移が見られた。
 ここで母は少し力を落としたように見えた。家族で母を力づけ、今度はその肺に転移したがんの摘出をした。これも成功に終わった。もっとも、肺の相当部分をがんとともに切りとったため、心肺機能に低下があるかもしれないということだった。
 それでも母はリハビリを怠らず、また残る肺の機能も高かったのだろうか、心肺機能低下にひどく苦しむようなことはなかった。
 しかし、肺の手術により体内の何かが癒着するとかで、それが、とても、とても痛いようだった。

 この後は、何事もなく時がすぎた。
 一般に目安となる5年が経過しようとしていた。
 このタイミングで、母は、次の食道がんの診断を受けた。

食道がん【死因】

 一度がんを経験していたのに、5年もの間、胃カメラの一つも飲んでいなかったのが惜しかった。

 あとで思い返せば、この食道がん診断の前に、私はそのしるしを見ていた。母が何かを飲み込む際、たまにうまく飲み込めないことがあった。私は、その時に母に検査を勧めておけば…と度々悔やんだ。このことを母にも話した。すると、それは医者でもないんだからしょうがないし、あのとき検査しても変わらなかったかもしれないし、と、母は私をなぐさめた。

 とにかく、この食道がんの診断は、前の大腸がんから5年が経過し、いよいよ安心しようという矢先だったから、私を初め、家族の落胆は大きかった。母本人の落胆はどれだけであったか、想像ができない。

 母は自らのいのちの維持について、かねてより、無駄な延命措置は無用だと考え、これを幾度も私たちに語った。私たちもこれを理解した。
 加えて、母は自らの死後、献体に出して欲しいということを、強い意志として、繰り返し私たちに伝えた。一度、私は、献体に同意する署名を、母にやさしく求められたことがある。何の書類だったかは忘れた。私は、献体に関する母の言葉をよく承知していたものの、いざその署名をすることを考えたら、胸がつまって、できなかった。これを謝ると、母は、気にしなくていい、母の気持ちはあんたはよく分かっているのだから、と笑い、書類を引っこめた。
 以来、その署名の話が出ることはなかった。

 食道がんの当初の診断では、ステージ詳細を断定することはできないが、化学療法の上で、がんを切除する手術を行うのがよいということで、母はこれを行った。
 この手術は成功に終わった。
 ただ、その結果、食道がんのステージが末期であることが分かった。
 このことは、まず私たち家族に告げられた。私たちは、これを母に説明しなければいけなかった。辛かったが、後日、私はこれを母に伝えた。母は
「ああそう…」
と素っ気ない返事だった。

 当初の予定通り、母は、食道の半分と胃の上の方を切除して、これを繋げた。胃の機能も弱まるため、食べることも消化吸収することも、前より難しくなり、落ちた体力を「完全に」戻すことは、難しいかもしれないと言われた。
 それでも母は、食べ、歩き、動き、私たち家族も母を励まして、体重も体力も、以前と変わらぬほどに回復した。一時半分も上がれなかった駅の長い階段を、上がりきれるようにもなった。

 がんが心臓に転移した。
 心臓に4つある部屋のひとつに、まあまあの大きさでできているという。心臓への転移はめずらしいが、とにかく急きょ手術で取り除くことが有効であり、その後検査をしないと詳細は不明だが、放置してもよいことはないということだった。この手術自体は、さほど難しくはないとも言った。
 やって希望があり、放置してもよいことがないとなれば、やるしかない、私たちはさらに母を励まし、もう一踏ん張りだと力づけた。

 手術は成功に終わった。
 この頃には、母もいい加減疲れていただろう。母は自分だけならこんなにできなかったかもしれないと言っていた。半分は私たち家族のために、がんばってくれていた。

 数日後、心臓にまた同じような影が見つかった。
 どうやら、再度取り除いて希望があるというわけでもなさそうだった。

 私は先生に呼ばれた。母と3人で話す前に、話すことがあるということだった。
 病院の一室で、先生と二人きりで話が始まった。心臓の件のほかに、「違う話」があるということだった。
 ところが、その「違う話」の途中で、病院の手違いか、母が車椅子で連れられてきた。室内は3人になった。

 母と私は、二人で、先生の説明を聞いた。
 ここでは、その「違う話」には触れられなかった。
 先生の説明が終わると、母は退室することになった。
 私は出入り口から遠い席に座っていて、先生は母の退室をうながすとともに、私の前に立つことで私の退室を制し、母だけを退室させた。先ほどの「違う話」の続きをするためだ。
 この時にちらっと見えた母の顔が、私の目の奥に引っかかってとれなかった。別に何という表情でもなかったと思うし、先生に視界を半分さえぎられていたため、はっきりと見えたわけでもなかった。だが、いつも私が見舞いに来、母と話をして、別れる際には、それなりに別れの時間というものがあったのだ。この時、その別れの時間はなかった。母は大きく振り向くでもなく、静かな表情でゆっくり前を向きなおし、車椅子を押されていった。

 先生は、私と二人になると、あらためて「違う話」を始めた。
「今後、状態が急変し、お母さんの呼吸がうまくいかなくなる『可能性が』あります。そうなったら、お母さんを眠らせたうえで、人工心肺装置を取り付けて、生命を維持する必要が出てきます。しかし、装置を取り付けたら、そのまま体が回復することは期待できず、装置をはずすことはできなくなります。そこで、もし呼吸がうまくいかなくなった場合、人工心肺装置を取り付けるか否か、どう考えますか。また、その取り付けるかどうかの意志決定を、お母さん本人にさせますか、あるいは、親族として決定してもらうこともできるので、そうしますか。」

 延命措置をとるかどうか!
 そしてその決定を、母本人にさせるかどうか!

 もちろん、これはあくまで「可能性」の話、もしものときの話であって、必ずその事態になるということではなかった。しかし先生の話しぶりからして、まんざら可能性の小さい話とも思えなかった。だとすれば、なおさら悩ましく、私は急に、考えることを強いられた。

 私が悩ましく思ったのは、延命措置を取るかどうか、その答えの部分じゃなかった。その答えは「否」に決まっていた。延命措置を望まず、かねてより「それは無用だ」と言っていた母の考えからしても、またそれを理解していた私たち家族としても、その答えは「否」に決まっていた。

 悩ましいのは、それを母自身に決定させるかどうかだった。
 母にそれを決定させるということは、もしかしたら呼吸が急に止まるかもしれないとか、人工心肺装置という大変なものを取り付けるだとか、母を眠らせたらずっと目覚めることがないとか、そうしたことをすべて開けっぴろげにして、突きつけるということだ。
 これまで母は、それなりに長く病気と向き合ってきた。初めの大腸がんから数えれば、6年ほど闘ってきた。4度の手術を乗り越えてきた。それも軽い手術ではなかった。内臓を切りとるという、肉体の相当量をとってしまうような手術だ。心臓の手術も、難易度はさほどでないということだったが、それでも怖い手術であったはずだ。(母は「それほど怖くない」と言っていたけれども。)
 手術だけではない。
 手術後のリハビリについては、私は時にうるさく母の尻をたたいた。術後の痛みや苦しさは、特に避けることなく、何でも話し合ってきたけれども、やはり私には想像のつかない、辛いものであったろうから、母としては私に話し切れないところもあり、飲み込みながら忍んできたのだろう。
 生活の仕方を変える苦労もあった。母は胃の入り口をとっているから、胃から食道への逆流を防ぐ部位がなくなり、水平に横たわることができなくなった。それに、食道が狭まっているとか、柔軟に広がらなくなっているとかで、大きな一口を飲み込むことができなくなった。だから十分な量を食べるためには、とにかくゆっくりと食事をする必要があった。私も一緒にペースを合わせ、ゆっくりと食事をして、母が量を食べられるように助けた。
 母は何事も、とにかくちゃっちゃと、素早くすませてしまいたい性分だった。食事に関してもそうだった。落ち着いて食事を楽しんでいる姿など、思い浮かべることができない。多少のんびりしたところのある私からすれば、信じられないような「せっかち」だった。そのせっかちの母が、私よりも遅くめしを食うというのは、だいぶいらいらしたい気持ちもあっただろう。
 悪い結果を怖れて、結果のふたをあけて見ることのできなかった母。その母が、がん告知を受け、重いがんを体内に抱えて、どんな気持ちで、私たちに平気な顔を見せていたか。それは母に言わせれば、結果がわかって、一度気持ちの整理をつけたら、いちいちそんな小難しいことは考えないと言ったかもしれない。また、母なりの、あるいはその年齢なりの考えがあって、「死」のとらえ方が、私などとは違っていて、すでに整理をつけていたのかもしれない。それに何といっても親だから、子に心配をかけまいとするのは自然なことだったかもしれない。それでも私には推し量って余りあるものがあった。
 母にすべてをあけすけにつきつけ、決定をさせるというのは、私の気持ちのうえで、やっぱり、たやすく考えられることではなかった。

 一方で、私の頭は、初めから答えを出していた。母自身に決定させるというのに決まっていた。
 私は性格上、誰かの大事なことを、本人に隠し立てして、こちらで決めてしまうというのが、どうしても好きじゃなかった。こうした私の考え方は、若く、青いものだったかもしれない。
 それでも、これまで私はなんでも忌憚なく話し、母はこれを聞いてきてくれた。そういう関係だった。最後の最後で、隠し事をして終わるのはいやだった。
 また、この私の考え方自体を話題にして話すこともよくあった。
 だから、ここで私が母自身に決定させると決めても、母はきっと理解してくれるだろうと思った。
 あるいは、母は「あんたたちで考えて決めてくれたのなら、どちらでもよい。」と言う気もした。

 ところで私には妹が一人いる。
 私の頭では答えが出ていたが、気持ちの面からは簡単に言えなかったし、何より妹の考えも聞かなければいけない。
 妹は母自身に決めさせるのではなく、私たちで決めてやるのがよいと言うかもしれない、また、兄の考えがあるならそれで行くのがよいと言うかもしれない。そんなことを先生と話しながら、私は妹に電話をかけた。

 妹はすぐ電話に出た。私は事情を話し、妹に相談した。
 妹は、案の定、そんなのかわいそうだ、心臓の手術もしたばっかりで、なのにすぐにもう一度がんが出てきて、重ねてそんなことを言うのは、あんまりかわいそうだと言った。
 それでも妹は、私が自分の考えを言うと、それならそうするのがよいだろうとゆずった。
 方針は決まった。

 先生は、再び母を病室から呼びよせた。
 私は妹に再度電話し、スピーカーホンで室内の話し声が聞こえるようにした。
 先生は、すべてを母に話した。
 母は一つ一つうなずき、理解した。そして、延命措置はとらないでくださいと、はっきり答えた。
 私は母の手を取った。
 母はその手を握り返し、私を見、涙を流して
「ごめんね。」
と言った。私は
「もしもの場合に、さっきのままに、なるのが嫌だったから。」
と追加で一言添えた。母は黙ってうなずいた。

 話はすべて済んだ。先生の退室する時、私は立ち上がって
「先生、母をお願いします。」
と言おうとした。しかし、声がつかえて、言えなかった。
 私は黙っておじぎをして、先生を見送った。

 今度はいつも通り、笑いながら別れの挨拶をして、母が病室へ帰るのを見送った。

 結局、その「もしも」の事態は起こらなかった。

 それっきり、私は母と会うことはできなかった。

つづく

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