愛する試行錯誤


寂しさを解消しておくと、
執着ではない「 愛する 」はしやすい。

しやすい、というより
表れやすくなる。

寂しさは、愛されたいから。
愛するよりも、愛されたい。

だから、愛したいのに傷つけてしまったり、
愛されたい寂しさが、愛することを邪魔する。

愛されたい想いのほうが強すぎて、
「愛する」とは真逆のことや相反することをしたりする。

ここまでで、もうすでに、
愛を表現することの難しさがわかる。

寂しさを昇華するって、
なかなかなかなかのことだから。

以下、いろいろ書いてはあるけれど、
うまく愛せなくても、しょうがない。
トライしてみたことやってみたこと
いまのベストが「これ」

愛そうと試みる
そんな試行錯誤で。

逆にそんな視点から見てみると
愛されたい/愛されなかったというような
想いがあるとしたら、すこし安らぐかもしれない。

完璧に愛を表現できる人なんていうのは、
稀有だから。

愛の片鱗を表現することでさえ。

できない人が目の前にいたり、
それが自分の親であったりしても、
それは自然といえば自然なことだから。

それは諦めというより受容として。
自然なプロセスでの許しとして。


「 愛するって、なんなのか?」


漠然としていて、わからないままに、
なんとなくのイメージでやってみるのだけど
「 執着すること=愛すること 」
そう勘違いしてしまうことも多い。

相手が苦しそう/不自由そうなら、
それは執着・押し付けなのかもしれない。

基本的にわたしたちは
「 愛し方勉強中 」なのだ。

親だからといって
愛し方を伝授されてきているわけではないから
見よう見まねで子供を「愛そう」と試みる。

出来ているようなときもあれば、
出来ていないときもある。
真っ向から真逆の場合だってある。

子供を愛するという立ち位置にたってみて、
その職務を全うしようとするのだけど、
やったこともない職務に慣れていないし、
場合によっては「引き継ぎ」もおこなわれていない。

前任者(親の親)も
「愛し方勉強中期間」であったため、
正式な「愛する」を伝授されてないことも多いから。

試行錯誤のそれは、
自分勝手だったり、
重々しさだったり、
窮屈であったり、
単なる自己主張であることも多い。
なぜかといえば、

「 寂しさ=わかってもらいたい=愛されたい 」

その想いのほうが強くって、
ついついそっちのほうが前面に出てしまうから。

寂しさを解消しておくと、
執着ではない「愛する」はしやすい
というのは、そういうことだ。

とはいえ、意識しすぎても空回りするというか
「正しい愛し方」みたいな観念に絡め取られても、
苦しくなり、不自然になっていく。

結局、ふっと自然に表現されるもの。
愛は「いまの自分の表れ」でしかない。
いまのベストが「これ」なのだ。

「愛そうとする試行錯誤」の内容は、不器用だったり的外れだったりすることもあるけれど、その一生懸命さをとおして伝えたいことは伝わってくるし、そこでは、受け取る側の 愛の感性 も試されいる。

そこに愛があっても気づけない場合もあるからだ。

この人はなにがしたいのかな?と考えてみると、

「 どーにか愛したい。愛し合いたいという想いもあるようだ。それがうまく伝えられない、表現できないのだな。」

随分と大人になってからも、そんなふうに「愛を察する」ことが難しかったのだけど、今となっては不器用だったり的外れだった部分はなんとも思っていないというか忘れてしまって、愛してもらったなあという感覚しか残ってない。

記憶というのはどんどん書き換えられていくというか、
更新されていく。忘れるも含めて。


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