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アタマで理解できなくてもハートでわかる。
おならの匂いまで愛おしいそんなワンコくんに
「ありがとうごめんなさい許してください愛しています」と言ってみると、
なんともよくできたフレーズであることがわかる。
ありがとう だし
ごめんなさい だし
許してください だし
愛しています。 ほんとその通り!
すべての角度からの想いを網羅している。
ありがとうという感謝、ごめんなさいという謙虚さ、許してくださいはさらに深々とこうべを垂れて、至らなさ、未熟さ、不完全さを認めて明け渡す。そうすると自然と「愛しています」が立ち現れる。
わたしはワンコくんのことを愛している。けれど、それを完璧に表現しきれない至らなさ、未熟さでもある。すべてが「自分/自分のこと」ではないことに気づくと、むしろ認めやすくも手放しやすくもなる。
この「わかるわからない」ってアタマによるものではなくハート。ハートが開いていないと拒絶してしまうので入ってこない = わからない。
わかるって受容(受け入れる)っていう現象。
そのポイントが ハート にあって、
アタマで理解できなくてもハートでわかる
(受け入れる)ができてしまう。
「 ハートが開く 」って抽象的な表現なのだけど、思考との一体化を手放していくと、その代わりにハート・シンプルな感覚の比重が増えてきて、それを「ハートに降りてくる」とか「明け渡し」と表現したりもする。
たとえば、まだ自我が発達していない子供をみていると、自然とそういうことをしている。垣根のなさ。区別のなさ。理解はしていないけれど受け入れている。
そのままを観ている。
まだ言葉を覚えていない子供のような視点。 境界線のなさ。ここからこっちが自分でそっちがあなたという線引きのなさ。
アジャシャンティの“ あなたの世界の終わり ”で、マインドレベルの目覚め、ハートレベルの目覚め、腹レベルの目覚めについて書かれていたけれど、
マインドでの明け渡し
ハートでの明け渡し
ハラでの明け渡し
それぞれレベルにおける「自分であることのなさ」の体験。
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