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金継ぎ vs 計画的陳腐化(planned obsolescence )

しばらく前になるが、東京大学の研究グループが、割れてもすぐに元に戻ることができるガラスを作ることに成功した、というニュースが流れた。

タイトルは「割れても自分の力で元に戻るガラス」

壊れたコップは元に戻せない、という常識を日本人は覆したのである。

大学の研究グループは、新たな接着剤の開発をしている時に、偶然自己修復機能を持つ、半透明の物質の開発に成功したという。この物質でつくられたガラスは、割れても室温で割れた表面を数十秒押し付けた場合、元の状態に戻るのだそうだ。

このニュースを読んで、私は日本の伝統技術、”金継ぎ”を思い出した。

金継ぎ(きんつぎ)とは、陶磁器にできた、ヒビや欠け、また割れてしまった破損部分を漆で接着し、金などの金属粉で装飾して仕上げる古くからある修復技法のこと。破損部を漆で修復した痕跡は1万2000年以上も前にまで遡る縄文土器にもみられるそうである。この日本古来からの伝統技術は、一旦は廃れたものの、壊れたものもありのままを受け入れる茶の湯の精神が普及されたことと合間って、再び室町時代頃から復活。金継ぎに芸術的価値が見出された。

普通は、傷ができると目立たないように、”直す、隠す、見えなくする”ことにフォーカスするが、金継ぎの場合は違う。堂々と、破損した箇所の修正跡をその物の歴史ある一連の「景色」として愛でるのである。むしろ、あえて傷を目立たせて、見るものに修復の美しさを気づかせると言っていいだろう。

これぞ日本の誇る、わびさび哲学の最たる例。

壊れたらポイと捨て、次の新しいものに切り替える風潮の中で生きる私たちにとって、金継ぎは、物を大切にし、長く使おうとする日本人の美意識を思い起こすのにうってつけの伝統である。

この真逆が、多くの企業が行なっている、計画的陳腐化(Planned obsolescence )と呼ばれるマーケティング手法ではなかろうか。

計画的陳腐化とは聞きなれない日本語であるが、それも無理はない。元は英語由来の概念だから。これは永続的に企業の利益を確保するために、生産段階から、ある一定期間が経てば必ず壊れるように意図的に設定し、継続して買い換えてもらえるように仕組むビジネス戦略のこと。

つまり携帯電話や家電製品は、ある期間が経てば必ず壊れ、また同じ製品を買ってもらえるように予め計画されているのである。または、予め自分では修理が難しいようにして、製造した会社にしか直し方が分からないように製造段階でわざと特殊な仕組みを入れ、修理サービスのためにお客さんが戻ってこざるをえないようにしたりと、システム的にお客さんを繋ぎ続けるように仕組み、生産維持できるようにしている。

正直に良質の製品をお客さんに届けようという気持ちで物作りをすれば、少しでも長く使っていただけるようにと考えるのが日本人的な自然な考え方だと思うのだが、私は、海外へ出て、わざと壊れやすい素材を選んで製品寿命を短くなるように設計する企業があることに、正直愕然とした。

会社の利益は製品からではなく、高額な修理費用から収益を得るという設計をする企業もあるという。それは、見方によっては不正直ともとれるし、世の中にゴミを増やし、環境を破壊し、そして何よりもお客さんのために全くなっていないではないか。それが自分さえよければいいという、西洋式企業、個人主義の在り方なのかと憤りを覚えずにはいられない。

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話を元に戻すが、”割れてもすぐに元に戻ることができるガラス”。

東大の研究者たちは、時間の方向性の常識にとらわれていないからこそ、こういう発明ができたのではないだろうか。

一般には”時間は過去から未来に向かって進むもの”というのが常識だが、どうも私には日本人の時間の感覚は、古来から時間概念が直線的に捉えていなかったのではないかと思えてならない。

使う側と使われる側が密接に繋がっていて、そこには価値がある。

人間と器の間に良い関係性が生じている。愛着がある。それを大事にするのが日本人の良きところではないか。

金継ぎは、壊れたものを丁寧に時間をかけて修復し再び蘇らせることも素晴らしいが、また同時に修復するプロセスが手をかける人を癒すという効果もある。

壊れても直せる、そして直した後の方が壊れる前よりも、より趣があって美しく昇華される。

割れる、壊れることは決してネガティブなことではなく、それもありのまま肯定する。それをゆっくり丁寧に時間をかけながら、金粉という粒子をパラパラとふりかけ隙間を少しずつ埋めていく。そして見事に修復した器は、新たな息吹を持ち返し、今まで以上の美しさを備えて蘇える。

それが金継ぎの魅力であろう。

SDGs、サステイナブルなど、持続可能なライフスタイルに西洋ではようやく目を向けるようになった感があるが、こんなスローガンが打ち出される遥か昔から、日本ではそれが当たり前だった。

お弁当箱と水筒を持って学校に、仕事に行くのは昭和までは当たり前の日常だった。


私たち日本人は世界に誇れる文化を保有していると信じる。

SDGsにフォローするのではなく、リードするのが日本人の役割ではなかろうか。




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