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自分の肩書を自信をもって答えたい

建築家?建築士?設計者?設計士?設計家?
これらすべて建築設計の職業の言い方です。なぜこんなに沢山あるのか。

今まで僕は自分のことを「建築士」や「設計者」と名乗ってきました。でも今は思いなおして「建築家」と言っています。

大多数の方にとってはどうでもよいハナシ。
でも自分が何と名乗るのかを決めることで見えてくることがあるかもしれないと思い書いてみます。

※2020/7/25改訂:TOP画像に色付け


「建築家」はキライだった。

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「建築家」という言葉の響きってなんだか偉そうな感じがしませんか?僕はそう思っていました。難しいことばかり言って芸術家ぶっている人というイメージを持っていたので、自分が建築家と名乗ることにずっとずっと抵抗がありました。

「建築家です。」と言うと、気難しい人?とか理屈っぽくてめんどくさい人?って思われるんじゃないか。何よりも自分から「私凄い人です」と言うことのように感じていて、気恥ずかしさがありました。

ちなみに建築家は「先生」と呼ばれることが多いです。「先生」も好きじゃないです。あ、これは今も、ですね。
僕は先生という言葉は何かを教える人を指す言葉だと理解しているのですが、僕にとっての建築設計は何かを教えているわけではないからです。

知識や経験をもとにお客さんを誘導することはしていますが、教えているわけではありません。お客さんも工務店もみんな一緒にものをつくるために協力し合うパートナーだと思っています。

そこに「教える」というニュアンスが入ると、なんだか突然に「教えて"あげる"、教えて"もらう"」みたいな上下関係が出てきて、意見を出し合うのに邪魔な気がするのです。

逆から見ると、教えてもらう立場でもないのに誰かを先生と呼ぶことは、心のどこかに「一応なんか偉い人らしいからそう呼んでおこう」みたいな配慮があるんじゃないかと思うんです。その配慮は社会人としては正しいのかもしれないですが、感情的な距離があるのも事実です。

考えすぎなのでしょうけど。

先生って呼ぶ方はそんなこと考えていないでしょう。ただの慣習だってことも分かってはいるんです。
分かってはいるんですが、先生と呼ばれると「あ、いま壁をつくられたな」と感じることもありました。


そもそも「〇〇家」「〇〇士」「〇〇者」とは何か?

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〇〇家は芸術系。自称。

〇〇家といえば、例えば画家、書道家、作家、陶芸家、落語家、実業家、漫画家などがあります。
ある特定の道の人という意味であり、芸術系に多い呼び方な気がします。そして〇〇士との大きな違いは、資格が無くても良いことです。
つまり、ある時、自分から〇〇家と名乗れば〇〇家となれるのです。


〇〇士は技術系。他称。

〇〇士といえば、例えば弁護士、税理士、飛行士、看護士、運転士など。
一定の技能や資格をもった人という意味なので、技術的な専門性が強い気がします。

建築の場合は一級建築士とか二級建築士とか管理建築士とか色々あるのですが、試験を受けて取る資格の名前が〇〇建築士です。
資格の名前なので、客観的な評価指標とも言えます。ちなみに設計士という資格はありません。たぶん。


〇〇者はそれをする人。自称であり他称。

〇〇者というのは、その行動の主体という意味だそうです。よって設計者といえば単にその建物の設計をした人という意味になります。
物書きの方で例えれば、「作家」として本を書いて、その本の「作者」や「著者」になりますね。


まとめると、
「建築家」は「建築士」の資格を持って設計をしてその建物の「設計者」になるのだと思います。言葉の使い方という点からは。


「建築家」らしい建築家はもういない

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では建築設計業を生業としている人がみな建築家と名乗るかと言うとそうでもありません。
建築設計は芸術的な側面もあり、技術的な側面もあり、大きな意味ではサービス業ですが、その中でどこに自分が重きを置いているかで呼び方を変えているように思います。

芸術家のように振る舞いたい人は建築家と言い、技術者としてありたい人は建築士と言い、どちらとも判断つかない人は設計者と言うのが多いような気がします。その違いをいちいち説明するのも面倒なので「建物の設計をしています」なんていう言い方もしたりします。

建築家

僕は今まで冒頭に書いたような芸術家然としたいわゆる建築家像になりたくないと思っていたので、「建築家」を避けてきました。
周りの仲間にも聞いてみると同じ考えの人が多くいることが分かりました。世間で知られている建築家像と自分がかけ離れているように感じるので、自分から「建築家」と名乗るのが恥ずかしいという人もいました。

でもよく考えてみるとそんなイメージ通りの建築家なんて実はそんなに居ないんです。居たとしてもどうせすぐに居なくなるでしょう。一般の方でも知っているような名前が売れている人でさえも”私の世界観を理解しなさい”的なスタンスではやっていないと思います。もうそんな時代じゃない。お金持ちのお客さんに惚れてもらって好きなように設計させてもらって世に出るなんていう、そんな共感されないやり方で乗り切れる時代じゃないと僕は思います。

そういう古い建築家のイメージを持たれたくないからそう名乗らない。でもそれって何だか後ろ向きなやり方じゃないか?とふと思ってしまったのです。


イメージから逃げるのをやめます


時代は変わるのだから、職業観だって変わるのが当たり前。だから恥じずに「私は建築家です。こうこうこういう考えの建築家です。」と言っていくのが良いように思います。もし、世間の建築家像がすでに時代遅れになっているのだとすれば、現代の建築家とその仕事について十分に発信してこなかった僕たちの責任なんじゃないかと思うのです。

肩書なんて本当はどうでも良いことです。だから建築家という肩書は使わないっていうことではなく、だからこそその肩書のイメージを壊すことも僕たちの役目なんじゃないかと思います。実は建築家というイメージに一番囚われているのは僕たち建築家なのではないか。ならば、もう自分が何と名乗るのかを曖昧にするのはやめよう。と。

創造の才に恵まれたすべての詩人、芸術家たちは知恵や魂のもろもろの他の徳性の父ではなかったろうか。そして、その知恵にも多くの形があるが、最も美しい、最も高い知恵は都市と家庭を組織する仕事に携わる者である。慎重さと正義を合わせ持つ者それを人は名付けて建築家と言う。
出典:プラトン『饗宴』

はちゃめちゃに遡ればプラトン先生はこう言っています。(あ、先生って使ってしまった)最高にカッコいいですね。
これは一つの真理として心にドンと置いておきますが、これに現代的な翻訳をして説明するのが僕たちの時代の建築家の役割なのかなと思っています。


僕は建築家です。
芸術家ではないですが、芸術的なものをつくりたいと思っています。
小難しいことも考えますが、分かりやすく言う努力をします。
スタンドカラーのシャツも着ますが、ユニクロも着ます。
関わる人みんながしあわせになれる建物をつくろうとしています。

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noteを始めてから、考えていることをどう書いたら伝わるだろうかと試行錯誤することが楽しくなりました。 まだまだ学ぶこと多く、他の人の文章を読んでは刺激を受けています。 僕の文章でお金が頂けるのであればそのお金は、他のクリエイターさんの有料記事購入に使わせていただきます。