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ボタン付けにみる夫婦関係

私たち夫婦は結婚して6年目になる。
性質は正反対。
世の中のどの夫婦もシーソーの形は様々だと思う。
かくゆううちのところも特異なバランスで成り立っている。

仮に彼のシャツのボタンが取れかけていようものなら。
よくあるステレオタイプのように妻である私が、
「直そうか?」
と気を利かせようとしたとして(彼の性格を知っているので、この台詞を言うことはないのだけど)すんなりとシャツを受け取る、なんて慎ましやかにはいかない。
「いいよ、自分でやるから。」
その言葉は少しも嫌味ったらしくなく
「僕のが上手く出来るから。」
という意味あいもあるのだが、これがまったく私の自尊心を傷つけない言い方であるのは、彼の柔らかい気の利かせ方を言葉の響きから感じることができるからだろう。
「あなたのことを否定してるんじゃないよ。」
と。

彼は私よりよっぽど丁寧に針と糸を触り、生地とボタンを往復してあるべき場所にピッタリ吸い寄せていく。それはそれは、正確に。
これは想像の話だが、
「ボタンを上手くつける方法があってね…」
と実演しながらテクニックを教えかねない。
そうしてボタンの穴と、生地の繊維と繊維の間を、針と糸は50mのプールをまっすぐ泳ぐようにして最終地点まで辿り着く。

相手のこのような行動を想像できるほどには一緒に生きている。あげく私は、
「こちらもお願いします。」
と畳んだパンツを両手でうやうやしく差し出し丈詰めを申し込む。
彼が裁縫を好むのは服飾の学校に行っていたというのと、昔から手を動かすのが好きなクリエイターだからだ。

ふと思う。
私は彼の気づかいの恩恵にあずかっている。
あずかっているが、私は彼に何かあずけているだろうか?
決して私のご機嫌とりの為ではなく、
「好きだと思って。」
と気まぐれに買ってきてくれたアイスやカヌレを喜んで食べているとき、
湯気が立ち上る彼の前に置かれたラーメンを見て、
「いい匂いがする。」
と私がいうと
「一口食べる?」
と決まって先に食べさせてくれるとき。
恩恵にあずかりまくっている、と思う。

彼が私から受けている恩恵といえば、お風呂から出て濡れたタオルをバーにかけるのが我が家の決まりなのだが、何度言ってもかけるのを忘れ、洗濯機のあたりに放り投げられているので、代わりに私がタオルを特定の場所へかけ直していることくらいじゃなかろうか。

それはもう恩恵うんぬんではなく、ただの生活の細やかな面倒くささに目をつむっているだけである。
えぇと、なんの話をしていたんだっけ。

飴の小さな袋のゴミでさえ、小さく折りたんで結ぶ几帳面さと合理的考えを持ち合わせた彼と、
洗濯するとき何プッシュ洗剤を入れたか忘れたり、色が同じ形の若干違う靴下を気にせず履いてしまう大雑把な私は、どうシーソーのバランスをとっているのか説明がつかない。
結婚生活において衝突あまりがないので不思議に思う。

いつからか私はお菓子の袋を捨てるとき、不器用ながら結んでゴミ箱に入れるのが習慣になった。

ふむ。これが苦にならないことが夫婦になるということらしい。

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