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植物から「生きる」を学ぶ。〜ADHDの私が考える、生活の工夫〜

こんにちは。
私は現在、大学でランドスケープ・造園学(簡単にいうと、植物と生活の関わりについて)を学んでいる、天音。と申します。
私の自己紹介は以前、記事にまとめているので、興味がある方はぜひ読んでいただければ嬉しいです。

ここでは私が今まで生活してきた中で学んだ、植物が私たちに教えてくれる様々なことの中で、特に私の人生への影響が大きかった、「生きる」ということをテーマに、私の考えを書いてみようと思います。

なぜ、植物から学ぶのか

なぜ植物から「生きる」という事を学ぶのか、疑問に思った方も多いと思います。

これには私なりの考えがいくつかあります。
大きく分けて、下記に3つ挙げてみました。

①身の回りに溢れているのに、注目されることが少ない。

②人間よりずっと昔から今まで存在するのには、環境への適応があるから

③一見枯れているように見えても、実は「休んでいるだけ」

①身の回りに溢れているのに、注目されることが少ない。

もしかしたら、私の文章を読んでくださる方は植物が好きな方が多いのかもしれません。

ですが、関東圏を中心とする都心部に住んでいると特に、身近な街路樹や植栽、道端の雑草に対して、普段から何かを思って見ている人の方が少ないと思います。

そんな中でも、ふとした時に行きたくなる場所や、なんとなく落ち着く場所を思い浮かべると、なんとなく植物がその空間にある、というのはよくあることです。

では、なぜ普段はあまり意識しないのに、ふとした時に思い出されるのでしょうか。

これに対して私は、植物があまりにも身近な存在すぎるからだと考えます。

よく歌の歌詞などにある、「身近な大切なものは、失って初めて気づく」という言葉がありますが、まさにその通りだと思っていて、私の場合は健康を失った時に真っ先に救いの手を差し伸べてくれた存在が植物でした。


②人間よりずっと昔から今まで存在するのには、環境への適応があるから

植物って実は人間が生まれるものすごく前から繁栄し続けているんです。

具体的には、イチョウソテツといった植物たち、またシダ植物なんかは、恐竜が生まれるよりも前から存在しているのに、時代によって少しずつ環境に自身を変化させながら、今でも現役で地球上に強く生きています。

これまで幾度も大量絶滅を経ながらも、粘り強く生き残ってきた植物たち。それらの生き方から人間も何か学ぶことができるのではないか?と考えるようになりました。

③一見枯れているように見えても、実は「休んでいるだけ」

冬になって植物が葉を落としていると、なんだかもの寂しい気持ちになることはありませんか。

私は、熱帯の観葉植物が冬になって葉を落としてしまっているのを見て、本気で枯らしてしまったと勘違いして、ものすごく落ち込んでしまったことがあります。

それから街路樹などにも定期的に注目するようになり、日本の気候では冬には葉を落とし、春からの成長期に向けて実は「休んでいるだけ」であることを学びました。

人生の中でも、時には休憩が必要なのではないでしょうか。

過去の自分は、ずっと自分の成長期を保つために必死になっていました。
その結果ひどいうつ症状に悩まされることになり、改めて『休む』ことの必要性を実感することがありました。

周りを見てみれば、たくさん踏まれても一生懸命に生きている雑草だって、冬には葉を落としたり、宿根草と呼ばれる植物は地上部を自ら枯らし、温かい地中で春の訪れを待つのです。

この地球上で人間だけが頑張り続けなきゃいけない、なんてことはないのかもしれません。


「生きる」って、なんだろう。

「生きる」ってなんでしょう。

唐突に哲学的な話が始まってしまいましたが、私個人としては、このことを考えるのは一見無意味に見えて、とても大切な行為だと思います。

私は、今まで鬱っぽくなったりする事はありつつも、それが病的に継続して、さらに希死念慮が湧いてくるまで悪化したことは生まれてこの方、今年に入ってからが初めてでした。

うつ病になり、毎日「」について考えると同時に、それと反対に位置する「生きる」ということは何か、を考えるようになりました。

心臓が動いていること?

呼吸をしていること?

意識があること?

毎日自立した生活を送っていること?

...そもそも自立した生活ってなんだろう。

などと自分なりに色々な事を考えましたが、生物学的な「死」と、社会の中における「死」というのは、どうも意味が違うように思えて仕方がなかったのです。

「死」にも様々な意味があるのなら、「生きる」という言葉にも様々な意味が込められているのではないだろうか?

ある時から、ふとこう思うようになりました。

このことに対して、私は答えはないと思います。
人それぞれの考えがあり、人それぞれの、「生きる」という意味を持っている。

それでも、" 私にとっての「生きる」とはどういうことか "を考え続けることが大切だと思うのです。

ちなみに、今の私の「生きる」とは、自分の意思で、どのように生活をしていくかを決め、その方針に従って今できることを積み重ねることだと思っています。

人生において、自分に向いていること、向いていないこと、やりたいこと、やりたくないことなど、たくさんのことがあります。

そんな中でも、そのたくさんの出来事から何を選び、どう生活していくのかは、その人の自由です。

今までの私は、日本の経済状況を過度に心配して、とにかく今お金を稼がなきゃ生きていけない、半年後には物価がものすごく上がってしまって、学費も払えなくなるんじゃないか?と、とにかくお金の心配をしていました。

だからずっと、休みの日もバイト、平日の学校の後もバイト、課題をやるのなんて深夜のみんな寝静まってからが静かだからいいだろう、と、自分の活動できるキャパシティを無視して動き続け、最終的に心身ともにダウンしてしまいました。

でも実際働けなくなってみると、案外働けないだけで死ぬ、なんてことはなく、
むしろ自分の好きなことを見つめなおす時間的余裕が生まれ、こうして文章を書くことに行き着いた、ということもあります。

今までは休みなんてずっとバイトしていたけど、案外休む時間も大切なんだな、と。
気づくのに時間がかかりすぎたけど、その分今後の生き方への捉え方も、様々な選択肢が増えてきました。

今後の人生でこの考えもまたもしかしたら変わるかもしれませんが、ちょうど20年と半年生活してきて、今私が考える「生きる」とはこういうことでした。

植物と生活の関わりを考える

みなさんは、「植物」と聞いた時、どんなイメージが湧きますか?

緑、酸素、ガーデニング、、、もしかしたら、食卓に並んでいるサラダが思い浮かぶ人もいるかも。

結局、どれも植物の話ではありますよね。

私は現在、大学でランドスケープという分野を学んでおり、身の回りの植物が、人の暮らしにどのような影響を与えるか、といったことも話題としてよく挙がってきます。

単に植物との関わりといっても、その形は本当に様々。
食に関係することもあれば、薬や毒、はたまたレクリエーションや環境問題まで。

身近でも、遠くもない。

そんな植物たちと、私はどのように関わっていくのか?
どのように接していきたいのか?

そんなことを考えることで、私自身や、ひいては今後の日本、世界のことにまで目を向けて考えるきっかけになると考えています。

私はどう関わっていきたいんだろう、、、
今はまだ具体的な方法などは思いつかないですが、普段なかなか意識されづらい、身近な植物たちの魅力を伝えることで、心が明るくなる人が少しでも増えればいいな、と思っています。

ヤナギのように、しなやかな思考って何?

よく、「柳のように、しなやかな思考を身につけよう」という言葉を耳にします。

そもそもヤナギってどんな植物なのでしょうか?

ヤナギ

こんな植物です。

風にゆらゆら揺れて、なんだか涼しげな印象を与えるような植物。

のれんの様に見える人も少なくないと思います。

この植物は、枝がよくしなって、強い風が吹いて、太い頑丈な木の枝が折れてしまうようなときでも、うまく風を受け流すことで、枝が折れずに生き残ることができます。

この状況を人生に置き換えてみると、、、

人から悪口を言われて凹んでしまう
→自分の今現在の悪いところがわかって、成長につながる

忙しいから残業まで全力で頑張って、疲れ果てる
→忙しくても、適度に息抜きをしながら頑張る(これが難しい!)

家事育児でとにかく忙しいのに、誰も手伝ってくれない!
→家事は工夫して効率を上げてみよう。
 育児は大変だけど、頼れる人や物には徹底的に頼って乗り切ろう

こんな感じで、同じ出来事に対しても、考え方にゆとりを持たせると、辛かったものが少し楽に思えたりする。そんなことの積み重ねにより生まれてくる心のゆとりこそが、ヤナギのようなしなやかな思考というのではないのでしょうか。

気にしない、とは言わないまでも、その出来事をうまく発想転換して、自分のメンタルを正常に維持しやすくするスキルの一つだと考えます。

まぁ私もこれが苦手だから、うつ状態を経験している訳なのですが。


楽しいことも、辛いこともある。世界に順応する工夫

この章は特にASD特性がある方に共感してもらえる内容だと思うのですが、少し(少しじゃなくても)何かに敏感なところがあると、途端に世界に順応するのが難しくなることがあります。

私の場合、大学の講義を受けている時に、マイクで先生が話す裏でなっている"ボッ"という音や、"ジー"という音が気になって、だんだん頭が痛くなってきてしまうことがあります。

それで講義の内容が頭に入らない、という事も多々あります。


私の場合はあまり偏食にはならなかったですが、偏食で栄養があまり取れなかったり、嗅覚が敏感だったり、視覚が敏感だったり、様々な苦労を抱えている人も多いと思います。

でもその分、他の人が気づけないような、些細な違いに気付くことができる。

これは本当に強みだと思っています。

それが芸術じゃなくても、一見すると何にも役に立たないようにみえることでも、世界のどこかで、今じゃなくても未来のどこかで役に立ってくる事があるかもしれない、ということは常に考えながら生活をしています。

苦手なことに対しては、自分1人で解決しようと頑張るのもとても偉いと思いますが、

時には物や人に頼る、ということも大切

だということを経験から学びました。

他人よりも辛いことは沢山あるかもしれないけど、その分の楽しみも見つけられる才能がある。

必要なときは勇気を出して人や物に頼ってみる。

これを意識するだけでも、かなり生活しやすくなるのではないか、と思っています。

発達障害でも、楽しく生きることはできるのか

前の章とも重なる部分は出てきますが、この章でも特性に関してのお話です。

結論からいうと、「工夫次第で楽しく生きることはできる」と私は考えています。

私は特性としてASD、ADHDともに持っていますが、どちらかというとADHDの方が強めです。

大学生になってから鬱になって発覚したので、いわゆる「大人の発達障害」と言われるやつです。


感覚過敏に関しても、地元(そこそこ田舎)のあまりうるさくない環境であれば問題にならないレベルで、大学に入るまでは、自分にそんな特性があるなんて事は、思ってもみませんでした。

毎日同級生とケンカをして先生から怒られ続け、自分自身女性なのに(大人の)女性恐怖症になったり、

他人の感情にどうしても共感できなくて、学ぶことでとりあえず理解はしてみようとしてみたり。

日常の困難は思い返せば数知れず。

そんな中でも、自分が心から好きだと思えることに関しては、本当に楽しんでやる事ができます。

毎日植物たちのチェックをしたり...

気象に関する勉強をしたり...

好きな音楽をノリノリで何日もずっとリピートしたり...

大人になって、自分でやらなければならない事が増えて、大変なことももちろん増えました。

でもその分、「自分の好きなことにまっすぐになれる心を持つ自由」も大人にはあると思っています。

推し活や資格勉強など、中々時間が取れないことでも、ずっと好きでいる気持ちを持っている事は何も悪いことではないのです。

私の妹は今年になって高校を転学して、同級生には50代のサラリーマンがいるそうです。(通信制高校なのでスクーリングが土曜日のみ)

好きなことにまっしぐら

これはマイナスで捉える人も多いかもしれないですが、自分的にはそれが楽しいのであれば、それでいいと思うんですよね。

植物の癒し効果って何による?

これまで散々植物がいいよーという事を熱弁してきて、もしかしたら読者の方にはもう疲れてきている方も入るかもしれませんが、もう少しだけお付き合いいただけると嬉しいです。

よく「植物には癒し効果がある」と言われますが、それはなぜなのでしょう?

という事を自分なりに考えてみました。

①緑色

植物の多くは、光合成をするために葉緑体という緑色の器官を持っています。

緑色には、リラックス効果があるとされており、緑色を見ることで、興奮を抑えられ、副交感神経が少し優位な状態に近づくのではないでしょうか。

副交感神経が優位な状態になると、リラックスして癒される状態になるので、植物の多くが持つ「緑色」というのは、癒し効果を持つ1つの要因となっていそうです。

②音

音によるリラックス効果もあるかもしれません。

風になびく葉のサラサラという音。

木に集まる生き物たちの鳴き声。

自分が土をふみ締める音。

自然から発生する音には、1/f 揺らぎというものがあるそうです。
1/f 揺らぎには、人間のみでなく、ゾウなどの、他の種の生物も癒しを得る、というふうに言われています。

あなたの好きな音は、どんな音ですか?

③香り

人により好みの香りというのもあると思います。

昔からクチナシやフジなどは、練り香水やお香など、さまざまな形で香りを楽しまれてきました。

私はあまり好きではないのですが、バラの香りなんかも人気ですよね。

香りは記憶にダイレクトに結びつく、とよく言いますが、実際、好きな香りはすぐにわかる、という人も多いと思います。

植物には、香りで人を癒す、という効果もあるようです。

④触り心地

皆さんは、植物を触ることってありますか。

私は昔から自然が豊かなところで育ち、植物と関わることも多かったので、必然的に植物に触れる、ということが往々にしてあるのですが、

動物のウサギとハリネズミの触り心地が違うように、植物にもいろんな触り心地のものがあります。

ふわふわしたもの、硬いものに柔らかいもの。
ツルツルしたもの、、、

本当にたくさんありますが、そのような植物を触ることによって愛でて、心を落ち着かせたり癒されたり、といったこともあるのではないかな、と思っています。

⑤味

皆さんは植物、食べますか?

さすがに食べますよね...?

私は生粋の日本人なので、お米が大好きなのですが、植物は人間に食べられるということも多いです。

特に食べられる植物の中でも「味」が美味しいものは、農業によって人間の手で人為的に増やされることになりました。

食欲は人間の3大欲求に入っているほど大事な要素ですが、美味しいものを食べると、幸福ホルモンが放出されるそうです。

食べる、ということはエネルギーの補充に必要不可欠な行動ですが、精神的にも癒しをもたらす、ということなんですね。

このように、植物はさまざまな観点から人間を癒してくれる、ということがわかってきました。

同様に人間に危険をもたらすものもありますが、多くの植物は、かなり私たちの人間に多くの利益をもたらしていると言えそうです。


植物のように「生きる」

自己紹介にも書きましたが、私はうつになった時、たまたま部屋に置いてあった観葉植物に心を救われ、自分の存在価値を見出しました。

もしかしたら、この記事も需要がないのかもしれない。
でも、未来の自分へのメッセージとして、書き連ねたいと思います。

私は、植物のように、強い幹を心の中にもち、ヤナギのようにしなやかな思考を持って、雨にも負けず、風にも負けず、これからの大きく変わっていくであろ地球環境にもなんとか適応し、人間同士のコミュニケーションは必要に応じて取れるような、そんな人生を歩みたい。

なんか自分で書いておいて恥ずかしくなってきましたが、自分の特性に対してもうまい対処法を学び続け、これからの荒波にも「乗りこなす」とまではいかなくとも、「溺れない」を目標に、自分らしく、マイペースに、今後も生活を続けていこうと思っています。

植物のように「生きる」

その方法はさまざまにあるとは思いますが、独立しつつ、持ちつ持たれつ、そんなちょうど良い距離感を人間関係でも続けていきたいと思っています。

終わりに

長い文章となってしまいましたが、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、自分の特性を踏まえ、今後のより良い生き方というものを考察してみました。
この文章が誰かの参考になれば、この上ない幸せです。

最後に。

自分へ。

今まで生きていてくれて、ありがとう。

これからもたくさんの苦しいことがあると思うけれど、本当に辛くなったら、こんな文章を書いて「生きたい」と強く思っていたんだよ、ということを思い出してくれたら嬉しいな。

これからもよろしくね。

fin.

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