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解離とか、記憶とか、

7月24日19時
昨日書いたnoteを見返してみて、これはもう少し寝かせるか、来るべきタイミングで公開するか今も迷っている。(まだ公開しない事にした)

私は、形成外科を明日退院する。
来週は、精神科の転院先での初診がある。
その転院先の主治医とは、別の病院にいた時に担当医(チーム医)として関わってもらった事があって、
1つ忘れられない事がある。
その主治医を、S先生としよう。
私は、認知行動療法のワークをOTRと進めていて、その時にOTRが、ワークを声に出して読んでみようと言った。
その時、私は小学生の時の「音読」の記憶がよみがえった。当時から、緊張しやすい性格だったから、嫌だったのだと思うがよく分からない。
音読が苦手な子はたくさん居ると思うし、特段変なことではない。

ただ、その時、私は離人感が強くなり、生きている心地がしなかった。OTRに話しかけられるが、脳内が思考をストップしてて、返事が出来なくて、更にその状況をどうにかしなきゃと思うほどに、現実感がなくなり、必死に脳内で自分の名前は〇〇、と連呼し、目の前の文字とにらめっこして、適当に相槌をうち、その場を凌いだ。
その後、部屋に戻ってしんどくなった時に、当直だったS先生が話を聞いてくれた。
そして、
「解離だね」と言った。

こういう事は、はじめてか/以前もあったのか、その際はどう対処していたのか、というお決まりの質問をされた。
私が離人感を覚えたのは、小学校低学年の時。
休みの日は、中食(買ってきたものを家で食べる)か、外食が多かった。それ(離人感)が起こったのは、ショッピングモールのフードコートで食事をしている時だった。 新しく家族になる男性と、従来の家族でテーブルを2つくっつけてジャンクフードを食べていた。 その時、今いる場所、私は誰なのか、今何をしているのか、が一瞬にして分からなくなりそれを瞬時に脳内がキャッチし(?)、自分が生きていると思えなくなった。自分が誰かを思い出さなければ、と思い、名前を脳内で唱えた。大丈夫だ、と今は食事していて、ここはいつも来ているフードコートじゃないか、と ひたすら自分を落ち着かせた。
そんな事はよくあった。だから、自分の名前を唱えて対処していた。

ある時、道路に面している飲食店で、家族で夕食を食べていたら、目の前で事故が起きた。
私は、事故にあった経験はない。ただ、その時、自分が消えた。死ぬかもしれないと何故か自分が思い、また離人感が湧いてた。
皆、事故の音に一瞬びっくりしていたが、数秒後には食事を再開していた。
私はとうていご飯を食べる様な気分ではなかった。でも食べないのは不自然だったため、その場ではどうにも出来なくて、トイレに駆け込んだ。
いつもはお子様メニューを食べていたけれど、単品メニューを頼んだという事もあり、席に戻って「もういらない」と言っても、親は「そんなの頼むからだよー」と納得していたのが不幸中の幸いだった。

話が逸れたが、私に解離だと断言したのはS先生がはじめてだった。だから覚えている。
それに、私と仲の良かった他患がそのS先生が入院中の主治医だった。(その子のベットは、廊下を挟んで対になる部屋)
S先生は、私が今度転院する病院に着任する為にその他患の主治医を離れた。その際、その子が泣きながらS先生に感謝を述べていて、手紙を渡していて、S先生もかなり感情を出しながら、線は引きながらも寄り添っていた事が印象深い。

特段、好きでも嫌いでもなかった。
歴代の担当医には、強烈な感情を抱いている事が多い自分だが、関わりが少なければ、特に何もなく。

歴代担当医3人、歴代担当医1人に未だに会いたい。
というか、今だから会いたい。

あの時はありがとうございました と伝えたい。きっと叶わないけれど。

まー、ここまで思い出したけれど、私は覚えていても相手は記憶にないパターンは経験済みだ。
例えば、1年前まで主治医だったM先生。M先生が後期研修医?精神科医局に入局したての頃?に
マーゲンチューブを入れられた事や、「〇〇ちゃんも辛いんだよね」といった言葉を覚えていた。
マーゲン入れられた時は、「私は研修医の練習台かー、まぁここは大学病院だしなー」とベットに拘束されながら思っていたし、
私が衝動を自制出来ず、周りにも迷惑をかけていた時に、「〇〇ちゃんも-」という言葉をかけてもらって、救われていたのだ。あぁそっか。私も辛いと思っていいんだ、と。 (勝手にね。

だけど、主治医が異動になりM先生の外来を受診したら、「はじめまして。(前の主治医)から引き継いだMです。」と言われた。覚えてないんだな、と、私の気持ちが強すぎたな〜笑と思った。

かなり長文になっているのに、ここまで読み進めてくださりありがとうございます。オチも何もないです。申し訳ない。
ただの掃き溜め。

女医さんについて、note1本あげているけれど、
この流れで、またその女医さんに関して思い出した事を書いて消化したら今回の記事?が完成するので、しばしお待ちを。

女医さんが担当医だった事はないが、当直で関わってもらった事は複数回あり、最後に当直で関わってもらってから、女医さんが主治医になるまで1年はかからなかった。
女医さんが、主治医になったのは2023年9月。
当直で関わってもらったのが、2023年1月。女医さんは、2023年4月に異動したのだ。
当直で関わる、という事は勘が鋭い方は分かるかもしれませんが。、精神的に不調でした。

最初は、物に当たったり、看護師さんになだめられながら布団に入って寝ようとしたけれど、落ち着かず、また物に当たるが、スッキリしなくて、自傷をはじめた。 物に当たってる時は、女医さんは観察しているだけだったが、自傷をはじめたら、「〇〇ちゃーん、それやっちゃったらベルトするしかないよ(抑制帯のこと)」と言い、体幹拘束の指示を入れた。

それを思い出して、まだ下書きに眠っているnoteに記載した「周りに何かしてほしい」という意味を再度認識したのだ。
(まだ公開していないnoteには、死にたい気持ちと生きたい気持ちとそれに関する行動を自分なりに考察している)
この、一連の拘束されるに至るまでを振り返ると、
自分で問題を解決する気はなくて、助けてほしくて、結果的に周りが助けている、という構図になる。これは振り回しなんだね。

以上❕ 2578字読んでくださり、ありがとうございます。
次の記事、もしくはつぶやき に、次の精神科受診に対する気持ちを文字数少なめで書きます。


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