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察することのデメリット。

「察する」ことができるのは、良いことだと思う。

その思いが行きすぎなければ、
という条件が付くけれど。


私は察するのが苦手だった。


言葉通りにしか受け取ることができなかったから、
友だちに「待ってて」と言われれば、
黙って何分でも待っている、そんな子だった。


友だちが全然戻ってこないのを知った親が
私を諭してきても
「待っててって言われたから待ってる」
そう返す、バカ正直で真面目過ぎる子だった。


それが年齢を経るにしたがって、
察すること、
言外に隠された言葉を読み取るようになっていく。


親に「言わなくても、それぐらい理解して」と
怒られたり、
友だちに「あれは嫌味で言うてきてんねんで」と
聞かされたりして、
状況を読もうとするようになっていく。


でも、根はバカ正直で真面目。


そのせいか、
いつしか「察する」「空気を読む」の加減が
わからなくなっていく。


「察する」や「空気を読む」を超えて、
言葉の裏を探るようになっていった。


そうなると、人の言葉を素直に受け止められなくなる。


褒められても「お世辞」としか聞こえないし、
ひどいときには
「ほめられて喜ぶ私をあざ笑っている」ように
受け取ってしまうこともあった。


ただ純粋に、私を頼ってきただけの言葉も
「私をいいように使おうとしてる」と
思ってしまう。


遊びの誘いも
「本当に私と遊びたいって思ってるの?
 たまには声かけとかなアカンとか、
 〇〇さんに声かけるんやから
 私にも言うとかなとかって感じで
 言うてきてるんじゃないの」
そう勘ぐってしまうこともしばしばあった。


被害妄想だし、
被害者意識強すぎ、
自己卑下しすぎで、
救いようにない状態に
20代のころは陥っていた。


こうなっていったキッカケは思い出せないけど、
バカ正直に言葉通りに誰かの言葉を受け取ったときに
小バカにされた記憶が残っているから、
それがキッカケの一つかもしれない。


必要以上に察しようとし始めた私は、
度を越えて言葉の裏を読むようになり、
いつしか疑心暗鬼に。


30歳を超えて、少しこの悪癖はなくなった。


なぜか急に、
大阪のおばちゃんと化すことに決めたから(笑)


「空気読むの苦手やねん」と、
たまに自分から言うようになった。

そうすると、
「全然やん。空気読めてんで」と言われ、
自信を少し回復。


わからないことは「それって、こういうこと?」と
聞くようにしていった。

言いやすい相手だけだったけど。


そして、46歳の今。

全然空気を読む気ない。
察するってできませんって顔してる。


このへんのことは、また機会があれば書くとして。


「察する」「空気を読む」
日本人の美徳みたいに言われることは、
令和の今、だいぶ減ったと思いたい。


もし、まだそういうのを要求されることがあるなら、
度が過ぎないように
自分で自分の意識を保ってほしいなって思う。

私みたいに、
疑心暗鬼、被害妄想の酷い人間にならないように。

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