東北大震災の時…
私は2011年3月11日 の東北大震災を運良く逃れる事の出来た1人です。
今までは… その震災の話題に関するテレビ報道やテレビ番組(ドラマや映画)を自然と避けて生きて来た。
何故ならば余りにも衝撃的な現実のいくつかの事が影響しているからだ。
当時、工業用の化学薬品の仕事で一週間おきに福島や宮城や山形、秋田、更に岩手まで…お得意先と新規の取引先を訪問して、いろんな仕事の用途に応じた化学薬品を開発したり、それを供給するまでの段取りをする開発事業部と営業部を兼ねた仕事してました。
昨日、NHKの方で…草彅剛が主人公の東北大震災をネタにしたドラマを見てました。
番組のタイトルは「ペペロンチーノ」です。
当時の悲惨な海岸線や街を見て知って
いた私は…当然、そうなる以前の風景を知っているだけに普通のショック レベルでは観れませんでした。
今でも思い出すのが…何ヵ所ものホームセンターを回って水を貯めて運ぶ為の白いポリタンクを探し回った事です。
震災直後の東北は断水で、どこもかしこも綺麗な水が手に入りません。
本来、燃料を入れる為の赤いポリタンクを仕方なく買って帰る人々も、たくさんおられました。
なんとか、被災された取引先の社員や経営者の為に綺麗な水を持って行ってあげたくて警備体制の合間をくぐり抜け夜中に福島の取引先に向かおうとしましたが、その途中で橋も道も、ぐちゃぐちゃです。(もちろん、高速道路は通行止めで入り口ゲートに入る事さえも無理な状況)
仕事のライトバンの車の荷台に山の様に積み込んだ為に、水入りポリタンクの量(重さ)でとても無理が出来る状況に無くて私の計画は迂回路を探す事も出来ないで…結局、無駄な行動に終わってしまいました。(当時の皆さん、本当に期待だけさせてしまってご免なさい。m(_ _)m)
福島の方達は放射能が降り注ぐ中…結局、自衛隊の救援水を長蛇(行列)を日中の強い日差しの中を我慢しながら…ようやく飲食水や生活の為の水に ありつけれたとの事(様子)を後で聞き…、その中に子供達が必死になって、親や大人の役に立とうと頑張っている光景を聞いて知っていたので…それを思いながら…、涙の出ない涙の溢れる時を過ごしました。
福島は太平洋に面したエリア(浜通り)と郡山市を中心として南北に伸びるエリア(中通り)そして会津若松市中心としたエリア(会津地方)の三つのブロックに分かれいる。
私が先ず気に成ったのは、当然ですが太平洋側に有る会社(工場)の関係者達だった。
もちろん、原発事故の放射能の問題でパニックに成っているエリアでもある。
原発事故のある場所(街)には、私の取引先は無かったが、ベントにより漏れ出した放射能が風で流れて高濃度汚染の影響を受けたエリアには日立製作所の下請けの会社(工場)やミニ電池(通称ボタン電池)を作っている、お得意先の工場もあるのだ。
その内の一つの会社の元工場長で後に社長に成られた落合製作所の社長の携帯電話に連絡した時の話です。
何度か電話して、ようやく社長と繋がった…「良かった」と心から思う。
私は社長に
「会社に電話しても女性事務員が社長が捕まらないと…」
連絡が取れない事を心配していた事を理由に直接、携帯に連絡したことを説明すると…社長(当時の工場長)は私に語ってくれたのだ。
「今、学校の体育館に居る。」と…
私は当初、その意味が分からなかった。「事務所で事務員が心配していることを…」告げると…
社長の居る体育館の意味を知る事に成り…心臓が震えるのを感じて、頭が真っ白に成ったのを今でも覚えている。
体育館には身元の分からない死体が体育館の床が見えない位に並べられていたのでした。
社長は連絡の取れない社員の安否確認の為に、その場にいたのである。
私は、その事を知ると言葉を失った。
とにかく、社長が無事に生きていてくれた事を確認して、言葉も無く静かに携帯電話を切ったのを覚えている。
落合製作所は南相馬市にあり、私の好きな東北エリアの一つ(取引先)でした。
「相馬の野馬追(のまおい)」で有名な場所でもあります。
祭りの間は、街全体が戦国時代にタイムスリップした様に変わります。
面白い話は…祭りの期間は警察官達が参加している武士達の管理下に置かれている様な光景にビックリした事を覚えている。(まさにタイムスリップ感が満載)
この期間は各武将(大将)を中心に…3エリア チーム が相馬市から南相馬市の端までの間で分かれて、それぞれの陣営(場所)での出陣式を行ってから町中(街)を騎馬武将軍隊(軍団)が行列を成して移動するのだ…最終的には旧競馬場の様な場所に全部の騎馬隊が集まり…戦国時代の様相で…つまり、甲冑と背中に旗を背負っての競争走等々をするのだ。
特に凄いシーンはコーナーに進入した際に背中の旗の風圧の為か、疾走馬がスムーズにコーナーを曲がりきれなくて、そのまま直線的に観客のいる方に飛び込んでるシーンを見た時は凄いを通り越して危険な怖さを感じた事を覚えている。
そしてラストシーンは空高く打ち上げられた御神体を意味する「旗」を騎馬戦の様相さながらで…いっせいに旗の落下地点に向かって走りぬき…その旗を奪い合うのだ。
とんでもない危険な瞬間である。
もちろん、落馬シーンも見た。
多くの馬は危険を、かえりみずに その一点に向かうのだ。
私は震災前に相馬市(落合)の民宿に1泊した事がある。
場所は国道と海岸線との間に位置する農家のサイドビジネス的な環境での民泊(晩と朝に食事付き)
その際に、その農家では「野馬追」に参加する為だけに飼われている馬を見せて貰いました。
家主に話を聞くと一年に一回の祭りの三日間の為に馬と共に練習を含めて一年を過ごすと言っていた。
しかも、その事は…ちゃんと馬自身も理解していて、祭り「野馬追(のまおい)当日の三日間に命懸けの走り、人馬一体の行動で共鳴するのだょ」と話す家主。
餌代だけでも年間に相当な金額を使うと話してくれると…こんな話もしてくれた。
それは家主が馬のトレーニングで、ある日に海岸の浜辺を走らせていた時の事で…、馬が勝手に海岸線からいなくなり心配していたら、勝手に厩舎に自ら帰って来ていたと…嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして話しいた。
家主、つまり馬の飼い主にしてみれば、大金を払って買い取った馬で 更に世話(餌)にも相当な手間と時間を 金銭以上に掛けて 大切に共に生きているのだから…当然の事なのであると言いたげな話ぶり…それくらい人馬の間の信頼感が育っているのだとの事を知る。
ここで残念ながら…この農家は震災後、連絡が取れなく成った。
国道を挟んで海側の集落は跡形も無く海へと消えたのである。
あぁ、今…ドラマの最後の方で…
宮城の気仙沼が話の土地(舞台)だと分かった。
感動的なラストシーンだった…そして僕は思い出してしまったのだ。
そう、気仙沼に一度だけ行って宿泊した事がある。
「フカヒレの姿煮」が食べたくて…
気仙沼はフカヒレの水揚げで有名な港です。
この地は実は仕事の対象に成る様な会社(工場のある取引先)は全く無い。
しかも、中心部(メインの工業地帯)からは本当に遠く離れているのだ。
しかし、私は出来るだけ早々に、その日の仕事を済ませて気仙沼の宿に泊まり、フカヒレ料理を鱈腹どっぷり向き合いたいと…車を走らせていたのだ。
そこは…まるで崖を一騎に下り降りる、源平の牛若丸の如く海岸(港)に向かって急な坂道を降りた所に、周りを岩壁に囲まれているかのような港町だった。
私の泊まった宿は海岸の景観からは少しの林の中に迷い混んだ感じの古い歴史を感じる旅の宿であった。
もちろん、急な坂道を下り降りる前にも近代的な白い立派なホテルも有ったが海風の潮の匂いが漂う様な この宿は密かにゆっくり旅(出張)の疲れを取るのに最適の宿であったのだ。
夕食の内容に…フカヒレ料理を満喫して夜風に触れる為に、少し宿を出て歩くと直ぐに海岸線が見える道に出ると、その脇にあるコンビニエンス ストア( LAWSON )で…まだ眠りたくない夜を満喫する為の、いくつかの飲食品を買って宿に戻った。
次の日の朝は早いのに…、気仙沼は本当に遠い街で、仕事の中心部から離れている。
( 何度も言いたくなるくらいに…背骨国道から離れている場所なのだ。)
その為に、午前中の訪問先を出来るだけ、少なくしていても…かなりの時間が掛かる戻り道。
しかし…その価値は十分に有った。
悲しくなったのは、その地が震災で粉々に津波で破壊されるのを当時のニュースで見てしまった(火災の様子を含む)からだ。
当然、私が一夜を泊めて頂いた、あの古い歴史感が漂う宿も、その近くのコンビニも津波で流されて…手前の林ごと流された。
瓦礫の塊 以外は何もかも…津波の引き潮に呑み込まれてしまった。
この小さな港町…気仙沼は三陸海岸の名所めぐりには必ず入る素敵な港町だった。
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