見出し画像

昨日見た夢を思い出せない 5(中編小説)



伊笹に拒否された小柄な少女、みゆは血相変えて家にバタバタと走り込むと、投げ出すように母の携帯をリビングの机の上に放り出し、驚いてこちらを見る母や弟の視線から逃れるように自分の部屋に飛び込んだ。

おとわごめん。ごめんね!だめだったよ。

「どうしよう、どうすれば。どうしたらいいかしら?」
母は興奮してあっちに行ったりこっちに行ったり、走りっぱなしだ。走ってもどうしようもないとわかっていても、止められない。父もネクタイをはずしただけの、まだ背広も脱がない姿で突っ立っている。
「いなくなった?おとわが?途中で?」

しかも、たぶんお金持ってない状態かもしれないっていうの。おとわちゃんのカード持っちゃってるんですって三浜さんが。もうわけがわからない、どうしてそんなことになってるんだ?

騒ぎの中で、みゆが慌ただしく開いたのは、お互いだけが知っている鍵つきのSNS、今日の夕暮れ時に投稿された写真がぽつんと一つだけ、タイムラインの上に浮かんでいる。ごつごつした柱が並ぶ大広間か倉庫か、あちこちにフォークリフトが散らばっているのを見なければ、外国にでも行ったのかと思うほどだった。
「少しは落ち着きなさい。何らかの事件に巻き込まれた可能性だってゼロじゃない」
「事件!?」
「だからっておまえが騒いでも仕方ない」

おとわがSNSに上げた写真だけでは、いったいどこにいるのかわからない。場所は港のようだ。柱、屋根、コンテナの色彩すべてから、ふっと海風が吹いて来る。事件性がありそうでもあり、なさそうでもある。何故なら、みゆ自身がSNSに上げた写真におとわはハートを付けていた。
みゆはふと目を細くして画像を拡大する。柱に何か書いてある。住所のようなものが見えた。

「私が余計なことしたせいで、おとわちゃんが追い詰められてたら?もしそうだったら?」
「だって本人がいい、進めてくれって言ったんだ。そこは仕方ないです」
おとわはそんなこと言ってない。だからパパはいつも決めつける。みゆはそっと手を伸ばして母の携帯を取り、急いで階段を駆け上がって自分の部屋に閉じこもる。い・ざ・さ、とアドレスの検索をした。

ふん、何だあいつ感じ悪い。おとわが言ってたのと全然違うじゃない。あの子は感じのいい人、素敵な人だ、って言ってた。だから話そうと思ったのに!人の話もちゃんと聞かないで。怒ってるじゃないの。カンカンじゃないの。大丈夫です、気にしないでください。大丈夫ですって。どこがなの?全然、大丈夫じゃないよね。

言いたいことはたくさんあったような気がするのに、どれも封じられて行き場所がない。
おとわはね、いまは神戸にいってる。でも顔を見に行っただけ。アートイベントをやってるの。その人とは何でもないの。ほんとうだよ。話したことも、あるかないか。
そんなの信じる人がいるのかどうかわからない。でもおとわは、あの子はあの店でずっと、ただその人がライブペインティングしてるのを、絵をひたすら描いてるのをじっと見ていただけなんだ。それだけなんだよ。
一年間、ずっと見ていたんだ。
けれどその彼は、突然消えた。いなくなった。

三浜家はみゆの家の真向いにあって、おとわとみゆは幼稚園からずっと仲良くしていた仲だった。年も同じ、背丈も同じ、みゆははねっかえりで、おとわはおとなしい。ちょっとだけ下がってみゆの影にいた。
「ママさんとパパさん、離婚するって?おとわ、どこかに行っちゃうの?引っ越すの?」
「ううん、お父さんが帰ってこなくなっただけ」
おとわは笑った。
「大丈夫。どこにも行かないよ」

二人が二十六歳になる頃に、おとわの母方のおばあちゃんが具合が悪くなった。
 みゆは、自分の母とおとわの母が話しているのを影から聞いていた。
「だって岡山でしょ?遠くない?」
「おとわとの関係も今、よくなくて…遅い反抗期なのかな。ちょっと距離を置いた方がいいかなって。しばらく実家に行って母の面倒を見るわ。もう年なの。一人暮らしは無理なのよ。あの子、地元の専門学校に行って、地元で就職したでしょ。こっちは一度も家を離れたことないし」
「そんなのうちも同じよ」
「あの子はずっと、家のこと何もかもやってきてくれたし、いい年齢だからひとりで十分にやっていけるとは思うんだけど…。みゆちゃん、おとわをお願いね」
「もちろんです」

 母がいつにもまして興奮している。
「さっき電話したのよ。バツイチなんだけどってことも伝えたの。そしたらね、…させてって言ったの!おとわちゃんが!」
「は?」
「考えさせてっていってんの!」
母は部長にまでなるのが何なんだか、とにかくおしゃべりな押しの強い人だ。そして思い浮かんだ事を何でも口に出して喋ってしまう。
「あのね、おとわちゃんはダメならもう最初から絶対に駄目って言うから。そういう子でしょおとわちゃんて。もう頭から、私はそういうの、しませんっていう子よ。それが考えさせてって言ったの。考えさせてっていうのはこれは、これはもう、ほぼOKってことよ!」

ずっとずっと、あの子と一緒にいたから知っている。おとわはある日から、急に視線が動かなくなった。一週間に一度、決まりきった日に必ずその店に行く。
さっと右手を挙げて、イーゼルに立てかけられたカンバスにハケ、またはパレットナイフを走らせていく。白から黄色、黄色からオレンジ、赤へと色から色が縦横に光となって走る。
おとわの視線の先にいるその彼は、そんなセンセーショナルに絵になるライブペインティングをするタイプではなくて、机の上に水平に置いた紙の上にひたすら丹念に筆を一つ一つ、丹念に置いて行く。いつ終わるのかわからないほど作業の果てに、いつの間にか風景、または巨大な花が真っ白だった紙の上に花開いていた。

絵を取ったら何も残らないなんてそんな生き方、今どき流行らないよ、そう言いたいところだが、黙々とただひたすら手の動きを止めないこの彼を見ていると、そういう人もいるのかもしれないし、仕方のないことなんだと思うしかない。そんな人だった。
相手が毎週、彼が来る日に必ず来ているおとわのことを認識していたかもわからない。
お店のマスターにどうしたんですかって聞いたら、もともと、無理を言ってやっていたことだったからって。少し休ませてやらないといけないけど、どうにかして生きてはいかないといけないし…。
ぼんやりとした言い方で、みゆにもそれと知れた。
鬱になっちゃったってこと?

あの人のこと、もう追いかけない方がいいんじゃないの、というひとことだけは、みゆは用心して言わないようにしていた。でも、どこかで態度に出ていたのかもしれない。
「ちょっと展開、早すぎない?」
「おとわちゃんがいいって言ってるの。三浜さんにも話したわ!」
「親の顔合わせってなに?またパパがねじこんだの?」
「まあまあ、パパの言うことも正しいから」
そもそも親の顔合わせはしておくものだ。そうでなければおかしい。お見合いというものは結婚するためにあるので、まずはゆっくりお付き合いしてみるにしろ何にしろ、いちばん最初に責任を持ってご挨拶をするのが当然のことなんだ…。

「おとわ、本当に結婚しちゃうの?」
 びっくりしてみゆはおとわの所に飛んで行った。
「いやいや、急すぎでしょ。そんなに突然て、ちょっと待とうよ。このままだとなし崩しじゃない?この勢いで式場と日取りまで決められちゃいそうだよ?もう後戻りできなくない?うちのお父さんまで出てきて、おとわあんた、本当にいいの?」
おとわはそのみゆの矢継ぎ早の質問に何も言わずに、携帯を取り出して見せた。相手の写真でも見せてくれるつもりなのかと眉を寄せて覗き込むみゆに、おとわは明るく言った。
「久しぶりにね、見つけたんだ」
「あっ?あの彼?神戸のイベント…?」
 ほがらかに、茶目っ気たっぷりの屈託ない笑顔を見せておとわは元気に言う。
「そう。びっくりしちゃった。ここに名前が出ているんだ。あれから行方もわからない、生きてるか死んでるかもわからなくて心配だってマスターも言ってたけど、ちょっと名前で検索したら、出てきたんだ」
 みゆは、少し声を低くして聞いた。
「いつもそんな検索してたの?」
「ううん、本当に久しぶり。偶然なんだって」
いま、こんなお見合いして話も決まってるときに?
うふふ、とおとわは笑う。

時にみゆが言葉に出さないことを、おとわは何て言ったのかすべて聞いていたように笑う。
通じ合ってるなと思うと同時に、心を見抜いているようで肝心のおとわ本人の気持ちだけはふっとベールに隠して背中に回す。そんな時の笑顔が、頬が吊り上がってくちびるがわずかに皺を寄せ、細くなった目の隙間から光が漏れている。
やっぱり聞こうとみゆは思う。あんな親でも親は親だ。母親のためにも聞いておこう。
「それ、調べたのは本当に偶然なの?」
「うん。もうね、行かない」
さらっとおとわは答える。
「関係ない人だから。ただ、こうしてまだどこかで活動してるんだ、絵を描き続けていられるんだってわかっただけで十分なの」

わからない。自分の物差しでしか人は測れない。わたしは直情的で、すぐ好きになっちゃうしすぐ泣いちゃって、何も隠すことなんて出来ないんだ。他の子の思ってることなんて知らない。わからない。
でもおとわはあんまり長いことずっとそばにいたからわかる。
奇跡のように離れずにいたからわかる。
この人に会いたいはずだ。でもこのお見合いの相手にずいぶん、ひかれているのはたぶん、ほんとうだ。
どうだった?って聞いたときの笑顔がある。あのね、全然話さないの!すっごい無口。よくはわからないけど、感じのいい人だった。そう、とてもいい人だったよ…。見たことのない瞳の中のきらめき。

そうだよ。
あればいいんだ。そうでしょ。
一歩踏み出して、おとわをそっちの方に引っ張ってくれる何かが。

「言わなかったけどね。わたしあの人に話しかけてみたことあるんだ」
おとわが首をかしげる。
「えっ、話しかけたの?」
おとわが笑う。
「だってもどかしいじゃない。何考えてるのかわからないしさ」
「何て言ったの?」
「絵、綺麗ですねとか、こんにちわとか、あたりさわりのないことよ」
そのとき、その絵を描いている彼は確かにこちらに顔を上げたはずだった。みゆは一瞬、この人は目が見えないのではないだろうかと思う。反応がない。まるでなかった。
こちらを見ているけど、見られている、見ているという実感がない。
そしてゆっくりと顔を戻して、ふたたび紙の上にかがみこんでしまった。

おとわの顔から笑顔が消えている。
「おとわは嫌かなと思った。だから黙ってたの」
余計なこと話してしまった?
「怒った?」
「ううん、どうして?」
「勝手に話しかけたりしたから」
「ううん、みゆらしいなって。そして、あのひとらしいなって思っただけ」
そのとき、カタンと耳に聞こえない音がして、おとわがきちんときれいに手を揃えて正座したまま、すうっと浮き上がって離れていくような気がした。

誰も彼も、至極まっとうなままでありながら少しだけ、よほど気をつけていなければわからないほどわずか少しだけ歪んでいて、パズルのようにぴったりとはまることはない。
そのわずかな咎の欠片もない世界、完璧な美しさに焦がれている、どうしても必要で求めている、欲しいのはそれなんだ、とおとわが思っただろうことを、みゆは知らない。ただ不安を抱えて、おとわの顔を見守りながら座っていた。





次へ(昨日見た夢を思い出せない 6)

目次

児童書を保護施設や恵まれない子供たちの手の届く場所に置きたいという夢があります。 賛同頂ける方は是非サポートお願いします。