超短編小説|大人のコーヒー
初めて飲んだコーヒーは苦かった。
得体の知れない黒い液体は、少女のわたしの好奇心を掻き立てた。それはまるで、用水路を流れる泥水のようであった。けれど香りを嗅ぐと、うっとりと夢見心地な気分になるものだった。
母はいつもコーヒーを飲んでいた。
そのため、濃厚なコーヒーの香りは部屋中をふわふわと漂っていた。
わたしもコーヒーを飲んでいた。
母はコーヒーの量が減っていることに気づくと、すぐにわたしを叱った。母はきまって、「コーヒーを飲むと、背が縮むのよ」と言った。
わたしは背が縮まないことを神様に祈りながら、小さな手でコーヒーカップを手に取り、母にばれないようにこっそりと飲んだ。何度飲んでも、甘くはならなかった。病院でもらう苦い薬の方がよっぽどましだった。
けれど、それがコーヒーというだけで、わたしは何か特別な響きを感じていた。コーヒーと呼ばれる液体を飲んでいるというだけで、わたしの背は縮むどころか、高くなっている気さえした。
わたしは、別にコーヒーが飲みたいわけではなかった。大人が大事そうに飲んでいる飲み物をほんの少し、分けてほしいだけなのだ。
母がコーヒーを飲んでいるあいだ、隣で兄がコーラを飲んでいた。兄はコーラをごくごくと音を立てて飲んでいた。わたしはコーラを分けてもらうおうと頼むと、「コーラは飲みすぎたら、骨が溶けるぞ」と兄は言った。どうやら、大人の飲み物には犠牲が付きものらしい。
✳︎✳︎✳︎
わたしは、喫茶店に行った。
それは、昔ながらの古めかしい喫茶店だった。店主が目の前でコーヒーを淹れてくれる贅沢な店だった。注文をするときは、とても緊張した。
けれど店を出たとき、わたしは少しだけ背が高くなった気がした。遠い昔の懐かしい感覚だった。理由は分からないけれど、そんな気がしたのだ。
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