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掌編小説|ありがとうカフェ

短編小説『ありがとうカフェ』を書きました。町にひっそりとたたずむ不思議なカフェのお話です。10分くらいで読めると思います。時間がある時に、ゆっくり読んでみてください。できれば、コーヒーを片手に。

 ある日の夕方、近所を散歩していると、見慣れないお店を見つけた。そこは、赤いレンガ造りの高級店のような店構えをしていた。窓を覗いても、薄暗くて中の様子がほとんど見えない。看板には、「ありがとうカフェ」とだけ書かれている。僕は、その店の重たいドアを押した。

 中に入ると、僕の想像はあっという間に裏切られた。店の外観とは対照的に、少し古びた内装をしていた。カフェというよりは昔ながらの喫茶店のようなアットホームな雰囲気がそこには漂っていた。

 客は2、3人が点々といるだけで、店内に流れるジャズの音源がやたらと大きく聞こえた。新鮮なコーヒーの香りが店内を包みこみ、僕は匂いにつられた小動物のように匂いの住処すみかへと近づいていく。気づいた頃には、僕はカウンターに座っていた。

 不思議なことに、あたりを見渡しても、店員らしき人の姿はなかった。僕は、机の上に置かれたメニューを手に取ると、背後から「チリーン」という音がした。店のドアベルの音だ。どうやらお客さんがひとり帰ったらしい。

 先にお会計は済ましてあるのだろうか。それとも、お金を払わずに店を出たのだろうか。僕の頭の中で、その疑問が絶え間なく渦巻いていた。

「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいましょう?」
 不意に声を掛けられて、どきっとした。顔を上げると、そこにいたのは、白髪のお爺さんだった。目元のしわから、六十半ばくらいだと推測できる。お爺さんは、満面の笑みでこちらに顔を向けている。おそらく、この喫茶店の店主なのだろう。

「ホットコーヒーをひとつ」
 僕は、無難に注文を終えると、「ありがとうございます。美味しいのを作って参ります」とお爺さんは丁寧に返した。

 コーヒーは、数分のうちに届けられた。コーヒーを載せたお盆には、チョコレートが一粒添えられていた。何かのサービスだろう。

「本日は、ウガンダのコーヒーをご用意しました。少し酸味がありますが、フルーツのようなさっぱりとした味でございます。ぜひこのチョコレートと一緒にお召し上がりください」

 店主はそう言うと、ふたたび満面の笑みでその場を去って行った。僕はさっそく、もらったチョコレートを口に含む。

「苦い...」

 それは、カカオをたくさん含んだダークチョコレートだった。僕は口に含んだことを後悔した。それから、お口直しにコーヒーを口元に運ぶ。

 その瞬間、コーヒーがチョコレートを包み込む。まるで虎がバターになるみたいにぐるぐると渦を巻き、口の中で広がっていく。最後はコーヒーの持つジューシーな味わいだけが口の中に残った。

 それは、この店に入ってきて3度目の驚きだった。この店に入ってから、不思議なことばかりが起こる。まるで夢を見ているか、それとも、別世界に迷い込んだような衝撃だ。

 しかし、驚くのはまだ早かった。僕が会計をしてもらおうと席を立った時、店主は思いがけない言葉を僕に投げかけてきたのだ。

「お金は頂けません。お客様に”ありがとう”を言って頂く。それだけで十分でございます。むしろ、それこそが我々にとって最高のご褒美なのです」

 最初は何かの冗談かと思ったが、彼はいたって真面目な顔をしていた。僕はそれでも払おうとしたが、その申し出はすぐに却下された。

 店にはレジも常設されていなかった。テーブルには会計伝票もないし、思い返せばメニュー表にも金額は書かれていなかった。謎は深まるばかりである。

 なにしろ、向こうがそこまでお金が要らないならしょうがない。僕は心の中で、そう繰り返し言い聞かせた。何度も何度も。

 僕は、「申し訳ないです。ありがとうございます」とだけ言うと、店主はふたたび満面の笑顔をこちらに向けてきた。ようやく、僕は店を出た。

 お腹は満たしたけれど、心は満たされなかった。カフェは美味しいドリンクや料理を提供し、居心地の良い空間を提供する。客はそれに対してお金を支払う。満足した客はそのカフェに足しげく通う。これが客と店主との正常なコミュニケーションではないのか。

 段々と居心地の悪さを感じてきた。最高のおもてなしを受けたのに、まさか帰り際でこんな気持ちになるなんて、考えにも及ばなかった。もちろん店主にいら立っているのではない。店主の気持ちを汲み取れない自分に腹がたつのだ。

 僕は、やり場のないこの感情を誰にも向けられず、匂いにつられた小動物が深い森の中へと迷いこんでしまったような暗澹あんたんとした気持ちにさいなまれた。


 翌日、僕は友人と二人でカフェにいた。そこは、友人の行きつけの店だった。彼は、大のカフェ好きで、町中のカフェを点々と回るのが趣味だった。コーヒーにもうるさい男で、僕が缶コーヒーを飲んでいると決まって、「そんなのコーヒーじゃない」と言い出す始末だ。

「”ありがとうカフェ”って知ってる?」
 僕は何の脈略もなく、出し抜けに尋ねた。
「オレにもさっぱりだなぁ。この近くにあるの?」
「すぐそこにあるよ。昨日行ったんだけど、コーヒーが感動するくらい美味しいんだよ。それなのに...」

 感情のはけ口を見つけた僕は、興奮して話をつづけた。
「それなのに、店主は”ありがとう”と言われれば、お金は受け取らない主義で、こちらが支払いの提案をしても、拒むんだよ。だから、美味しいコーヒーを頂いた感謝の気持ちを伝えきれずにいるんだ。僕のこの救われない気持ちは、どうしたらいいんだよ」

「最高のカフェじゃないか。近くに、そんな店があったんだ」

 僕の気持ちは、彼には届かないようだった。それどころか、彼は満面の笑みをこちらに向けていた。僕は、何だかそれが昨日の店主に見えてきて、居心地が悪くなってきた。


 けっきょく、彼をあの店へ連れて行くことになった。僕は、何度も「行きたくない」と彼に告げたが、僕のオファーはあっさりと却下された。

 今日もあの店はお金を受け取らないのだろうか。ちゃんと美味しいコーヒーを飲ませてくれるのだろうか。コーヒー通の彼があのコーヒーを飲んだら、何を思うのだろうか。どれも気がかりだった。

 店の重たいドアを開けると、昨日と同じ光景が広がっていた。中は薄暗く、数人の客がまばらに座っており、相変わらず店主の姿はなかった。新鮮なコーヒーの香りだけが、僕たちを出迎えていた。

 僕らはカウンター席に腰を掛け、メニュー表を見た。様々なコーヒー豆の名前がそこにはあった。それでも、相変わらず金額は書かれていなかった。

「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいましょう?」

 店主は出し抜けに現れた。僕は昨日と同じように「ホットコーヒー」とだけ伝えた。

「ありがとうございます。本日は、ラテンアメリカのコーヒーをご用意します。コーヒー好きのお連れさまも気に入って頂けると思いますよ」

 友人は、自分がコーヒー通であることを知らせるシグナルでも送っていたのだろうか。コーヒー好きだけが使う合言葉でもあるのだろうか。

 店主は、まるで全てを知っているかのように、前置きを済ませた。それから、「美味しいのを作って参ります」とだけ言い、キッチンの方へ消えていった。

 まもなくして、友人のコーヒー講座が始まった。今日のテーマは、コーヒーノキ(コーヒーの木)についてだった。

「コーヒーノキは、コーヒー豆からは想像もつかないような白くて小さな花を咲かすんだ。でも、その花は健気にも、二、三日で散ってしまう。それから、すぐに木に赤い実がなるんだ。その中に入っている種を焙煎すれば、僕たちがいつも見ているコーヒー豆になるんだ」

 講義がひと段落すると、僕たちはキッチンの方に視線を向けた。ちょうどその頃、店主がお盆にコーヒーとホワイトチョコレートを載せて、こちらへやってくるところだった。

 「本日は、ラテンアメリカのコロンビア産の豆でご用意しました。水洗式で作られており、酸味もコクもほどよいバランスで、口当たりが良いかと思います。コロンビアには、たくさんの火山があり、ミネラルが豊富な土壌により...」

 長い説明を聞き終えると、友人はコーヒーを音を立てながらすすった。僕も真似して啜った。コーヒーの香りと風味が同時に感じられた。僕はコーヒーを啜っている間、まるで遊園地にあるコーヒーカップのような優雅でゆっくりとした時間が流れているような気がした。

 チョコレートを口にすると、風味が口全体に広がった。それは、まるでキャラメルのように、すぐに溶けていった。

 ふと横目で友人の方を見ると、彼は目をつぶって味覚と触覚に集中していた。僕はようやく、ここに来たことを満足した。

 しばらくコーヒーを堪能したあと、店を出ようと立ち上がった。店の戸口まで行くと、僕らは満面の笑みで、「最高に美味しかったです。ありがとうございます」とだけ言った。店主も顔をしわくちゃにさせ、まるでサンタクロースから初めてプレゼントを貰った少年のような無垢な笑顔を浮かべた。

 僕らが店を出ると、「チリーン」というドアベルの音が静寂な店内に響き渡った。カウンターの隅には、2枚の500円玉がひっそりと肩を並べていた。

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