見出し画像

やらない理由を見つけるのがじょうずね。

「おとなになる」

これは、いろんな可能性と圧力をはらんだ言葉だ。とてもあいまいなのに、便利だからよく使われる。でも本当のところ、「おとなになること」をしっかり定義できる人はほとんどいない。

「おとな」ってなに? どうすれば「おとな」? そんな素朴な疑問をぶつけて親を困らせる無垢なこどもが、全国にいったいどれだけいることか。

それはわたしも例外じゃなくて、ずっと、「おとなってなんだろう」って思ってた。

法律でいえば、20歳が「おとな」。でも大学2年生のわたしが「おとな」にふさわしかったかと言えば、「うーん」って感じ。「ふさわしいおとな」がなんなのかよくわからないけれど、とにかく、胸を張って「おとなです」と言えるような人間じゃなかったことはたしか。どこに出しても恥ずかしくないアホだった……。

40歳や50歳にもなれば、迷うことなく「おとな」なんだとは思う。50歳になって「自分はおとなの自覚がない」と言う人がいれば、それはそれでどうなの?って言いたくなるもん。

じゃあやっぱり、「おとな」って年齢で決めることなのかな。

20歳のときはまだ年齢に心が追いついていなかっただけで、年齢がおとなを決める基準なの? それでいいの?

成人して7年。そろそろ「おとなの自覚はありません」もキツくなってきた。じゃあその「おとなの自覚」ってなんだろう。やっぱりよくわからない。

それで思ったの。おとなって、やらない理由を見つけるのがじょうずなんじゃないかって。

「ダイビングしようよ!」と言われても、時間がないとかお金がないとか、すぐに否定的なことが思い浮かぶ。

「英語を勉強すべきだ!」と言われても、もう遅いとか必要ないとか、うまく逃げる。

相手が上司だから反論しない、子どもがいるから趣味は我慢しよう、人間ドッグでひっかからなかったから運動しなくてもいいや、明日やらなくとも来週やれば十分間に合うはず。

おとなはそうやって、やらない理由を見つけるのが、すごくじょうず。

もちろん、中高生だって、やらない理由を見つけては盾に使ってる。でもどちらかというと、「なんで制服のスカートを短くしちゃいけないんだ」「なんで勉強しなきゃいけないんだ」と、説明を求めていたように思う。

自分は納得いってないぞ、ほら、説明してみろ。ちゃんと理由を言え。そう言って反抗する。

もしくは、服が汚れるとか太るとか楽しくないとか、「やりたくない理由」を言う。なんでそれが嫌なのか、ちゃんと自分なりの理由があって、だからやらないんだって相手を納得させる。

でもおとなになると、ちょっとちがう。自分がやりたいとかやりたくないとかに関わらず、「やらない理由」をさっと用意して現状維持を優先させて、それでいいんだって自分自身を納得させる。これがじょうず。

そう、変わらないことが一番楽なんだ。そして無意識に楽しようとする。それが染み付いている。

腰を上げるのに時間がかかって、とにかく面倒くさがり。そのくせ口ばっかり達者になったものだから、もっともらしく聞こえる「やらない理由」がペラペラと口をついて出てくる。

エネルギッシュなおとなもいるけれど、そういう人たちは総じて「童心を失っていない人」、いわば大きい子どものように見られてる。それが悪いわけじゃないんだけど、変化を楽しんで新しいことに飛び込める人って、あんまり「おとな」な気がしない。

おとなっていうのはもしかしたら、諦めるのが得意になった人のことをいうのかも。

「ねぇ、あしたキャッチボールをしようよ」

そう言われて「筋肉痛になる」「グローブもボールもない」「どこでやっていいのかわからない」なんてやらない理由がいくらでも即座に思い浮かぶわたしは、やっぱり、おとななんだろうなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?