こころを守るための記事を書いたその後のおはなし

先日、このような記事を書いた。

かなりの長文かつ、推敲していない一発書きのため誤字脱字や言い回しなどのミスが多い記事となり、申し訳ない。
にも関わらず、読んでくれたりスキしてくれた方々へお礼申し上げます。ありがとうございます。

この記事を書いたその後、わたしのこころに変化があったので、 それを書き留めていこうと思う。
もしもPTSDやそれと似た症状で悩んでいる方がいれば、解決や緩和への方法のひとつとして参考にしてみてほしい。

該当記事を書いた理由

わたしは上記リンクの記事を書いた理由について、「自身のトラウマを元の場所へ戻すため」と表現した。
そのことについて具体的に説明しよう。

M(加害者のことです。くわしくは該当記事参照)によってトラウマを植え付けられてからこの長文記事を書くまでの間、わたしは何度も何度も逃れようのないフラッシュバックに苦しんできた。
これまでは、フラッシュバックに襲われどうにもできなくなってしまったらその都度Twitterで吐き出すというサイクルで過ごしていた。
しかし、このサイクルを続けていることでいくつかの問題が生じてしまうこととなる。

1.フラッシュバックが起こる度にその苦しみを言語化することにより、その感情が明確に固定化されてしまう。

2.苦しみを固定化する作業を何度もしてしまったせいで、本来フラッシュバック時だけで済んでいたはずのつらさが重複・倍増してしまった。

3.度々この件について思考してしまうこと、それを調子の悪いとき(自責し、認知の歪みがひどくなっているタイミング)にしてしまうことにより、「ほんとは自分が悪いのでは?」と疑ってしまう。

4.自責の感情を相手への客観的批判により無理やり消そうとするが、自身の思考の正しさを疑っている状態でそれをやると、あとあと他者を責めてしまった自分を許せなくなってしまう。


トラウマから脱却し健康な心身を取り戻すためには以上のような状態から脱却する必要があると考えた。
とはいえ、自身の苦痛を表出させないために無理をするとそれはそれで、苦痛そのものを悪として取り扱っている気分になり逆効果だ。
よって、「苦痛を表出させても構わないが、やり方を変える」という解決方法に至った。

1、2、3を解決するには苦痛の表出の頻度・タイミングを見直す必要があると考えた。
その都度繰り返すという行動、かつ感情の赴くままに爆発させるというやり方は諸刃の剣だ。
後々自分で投稿したTwitterを読み返し、その落ち込み加減に引っ張られてさらに落ち込むという悪循環はよくない。
「比較的冷静なときに」「もう他で書かなくてもいいようにひとつにまとめる」。

該当記事は、
『感情のぶり返しの抑制』
『トラウマを冷静に自分の意思下で管理しているという意識付け』
『主観をも客観的視点を交えて語ることで感情的になってしまったことへの自責を防止』

この3点を主な理由とし、投稿したものだ。
トラウマの存在を受容しつつ、メタ視点で処理をするという感じだろうか。
その方法をもって、フラッシュバックが現在進行形で起こっている苦痛だという誤認識を解消し、あくまで過去の出来ごとだと割り切ろうとしたのだった。

そして、それらの目的は概ね達成できたとして構わないだろう。
長期間に渡り「被害にあってしまった自分」を許せずにいた、その考え方は劇的に変化することとなった。


該当記事を書いてよかったこと

あの記事を書いてほんとによかったと思う。
当初狙っていた通りの効果が得られたことに加え、『繰り返し言及しなくちゃわたしの苦しみがなかったことになってしまう』という漠然とした恐怖心から解放されたのだ。

Twitterという、投稿の流れが流動的なツールにより感情をぶちまけたところで、それは対処療法でしかなかったのだと思う。
つぶやいた直後はすっきりしても、そのツイートなんて自分の目にさえも入らなくなった頃にまた感情がぶり返すと、『苦しいきもちを可視化しなくちゃ不安だから』また吐き出すことになる。
そうしないと死にたくなるほど苦しんだ自分が存在ごと埋もれていく感覚がして、どうかしてしまいそうだった。
被害を受けてしまった自分を誰よりも許せなかったのは、わたしだ。
許せないからなかったことにしようとする自分と、苦しむことをもう許してほしい自分。
それらの感情で板挟みになりながら過ごすのは、何度も自殺行動を起こすレベルで、耐え難いものだった。

今まで抱えてきたもの、抱えきれず零してしまっていたもの、
そのすべてを丁寧に残していったことで、今度こそあの時苦しんだ自分と対峙できたと思っている。

わたしのトラウマは単に虚言での貶められたことじゃなく、「自分の知らないところで別人格を勝手に作られ、それを雨宮さらさとして扱われてまうこと」だった。
だから、「見ていないところで嘘を言われる」トラウマを回避するために相手のTwitterに張り付いてしまうときもあった。
つらいから見たくないのに見て、自分について悪口が書かれていないことを確認しなくちゃ安心して眠れないような。地獄だった。
それについてTwitterのように情報が埋もれていく場所で断片的な弁解をしても安心感が足りなかった。
が、子細までも記載した該当記事が「ほんとのわたしはここにいるよ」と示してくれているのは、例えMの虚言を信じきった人に届かなかったとしてもわたしはとてもほっとする。
自分が1番こわがっていた。Mが作り出した「何の正当性もなくMに加害した雨宮さらさ」にほんとのわたしを飲み込まれそうだった。わたしはもうどこにもいないやって、諦めそうになることもあった。

これからは、わたしのことばで書いた客観性のある該当記事がお守りになってくれる。
該当記事を書いてフラッシュバックがやんだわけじゃないけど、ブラウン管テレビの画面の中で観ているような感覚に変わった。
「過去をしまう」って、こういうことだったのかもしれない。
死にたくなるほど苦しんだわたしは確かにそこにあった。そうだったわたしを許してあげて、今度はそこに置いていこう。
今を生きるわたしは苦しんでいなくて少しだけ余裕があるから、あの日のわたしの弱さだって受け止めてあげられる。
もしまた思い出して苦しくなってしまったら該当記事を読んで、「あのとき『は』つらかったな」と客観視しよう。
そうして徐々に、長い悪夢が醒めていけばいい。

おわりに

段階を踏んでトラウマに触れていく、曝露法という治療方法がある。PTSDの他にパニック障害などでも有効なものとされているらしい。
今回、わたしは無意識のうちにそれと近いことをしたのかもしれない。
もしも、トラウマ自体に言及してもその結果より苦しくなってしまったら、恐怖心はより肥大してしまうこととなるだろう。かつてのわたしがまさにそれだった。言及することにより癒される部分と悪化する部分が混雑していた。
悪循環を断ち切ることができたのは、自分自身がなにをどう悩んでいるか俯瞰して見ることで対策をとれたからだろう。

ただ闇雲にポジティブになるだけではなくせない傷がPTSDの症状となる。暗闇の中、自身の足元しか見えていない状態でできることはやはり限られてしまうのだ。
頭が痛くて痛くてどうしようもないときには「鎮痛剤を飲む」という発想ができても「もう痛くならないように原因から治す」とはあまり思えないのが人間だ。トラウマを抱えてる人が俯瞰視点を使えないのは至極真っ当なことなのである。
だから、もしこの記事を読んでいるあなたが現在トラウマを抱えてるならば、まだ痛がっていてもいい。痛い痛いと泣いている自分を許そう。
そのうち段々と気づいていくはずだ。血を流したのは今の自分じゃなく何かがあったあの日の自分だと。今泣いているのは古傷が痛いからじゃなく、あの日の自分を救えなかったからだと。
そこからがスタートラインだとわたしは思う。もしもスタートラインに立てたらそのときは、わたしみたいにお守りを作るというやり方もぜひ試してみてほしい。
人それぞれ合うやり方は違うと思うけど、この方法で救われる人が自分以外にもいるかもしれない。そんな人にこの記事が届いたらうれしいです。

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