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『数分間のエールを』を観ました

全員観なさい。


以下、駄文。




とても苦しかった。話が進むにつれて、自分のカスみたいな輪郭が浮き彫りにされているようだった。

受験を控えた高校生の彼方は誰かを感動させるためにMV作りに没頭していた。そんなある日、偶然出会ったストリートミュージシャンの演奏に心を打たれ、彼女の歌でMVを作ることを夢に見るようになる。翌日彼方の学校に赴任してきた教師・織重夕は、彼方がぞっこんしたストリートミュージシャンその人だった。彼方は何度も頼み込み、遂に夕の歌でMVを作る許可を得る。


主人公・彼方は誰かを感動させられることに疑念がない。それ故に、MVを作るという行為に迷いがない。彼方は夕を感動させるために一心不乱になってMV制作に励む。自分が何かを生み出せるということを疑っておらず、自分自身を信仰している。溢れんばかりの気力に満ち溢れた彼方の言動からはまるで俺という存在が咎められているようだった。

いったい、何かを生み出せる人間とそうではない人間はなにが違うのか。彼方はとにかく自分が何かを生み出せるということを疑っていない。いや、もはやそこには疑うという行為の"余地"すら用意されていない。彼方は自分を疑い得ない。MVの持つ力に魅入られた日から彼方の運命は決している。MVの力に陶酔し、それが推進力となり、創作することに向かわせる。強大な力に後押しされて、前を進むことを疑う者はいない。強大な力とは、ただそこに、純然たる事実として在るだけだ。力を加えると、加えた方向にものが動く。その因果関係通りに彼方は動いている。そこに"疑う"余地は存在しない。あるがまま、摂理を受け入れているにすぎない。

それではいったい、どうして俺は齢27に及んで何一つとして生み出すことができていない。因果関係に従えば、強大な力は推進力となって俺を前へと推し進めるのではなかったのか。それならば答えは明白だ。それは、俺が生まれてきてから一度もなにかに真剣になれたことがないからだ。

いったいぜんたい絵を描いている人はなぜ絵を描いているのだろう。俺もたまには絵を描く。とびっきり下手くそなやつだ。歌も歌う。これもとびっきり下手くそ。文も書くし、記事にする。しかし、そのどれもが楽しかったことなんて一度たりともない。絵を描いている間、歌を歌っている間、文を書いている間、そのどれもが苦痛だ。苦痛に苛まれながら、しかし義務感で書いている。なぜ?なぜそんなことを?どうしてそんなことをしなければならないのか。嫌ならやめてしまえばいいじゃないのか。俺がやらなくなって他の誰かがうん万倍のクオリティで作品を作ってくれているじゃないか。違う。そうじゃない、そうじゃないんだ。俺は、俺にしか作れないものがあると信じたい。俺たちは違うママから産まれてきた。だったら、違う人生に裏付けされた、違う芸術を生み出すことができるはずなんだ。

そうはいっても現実問題俺はなにも生み出していない。自分が作品を作り出すことに疑念の余地すら与えられなかった彼方とは違い、俺は、自分にしか作れない作品があるという可能性だけを信じて、自分が何かを生み出せることをまるで信じてはいない。俺は、『アイカツ!』が好きだ。いや、「好き」という言葉も正しくない。俺にとって『アイカツ!』は、好きだとか嫌いだとかそういった尺度で測れるような対象ではない。少なくともひと時において『アイカツ!』は俺の人生の全てだった。『アイカツ!』に出会う前の人生はすべて忘れた。『アイカツ!』に狂い、就活はバンナム1社しか受けなかった。落ちた。無職のまま卒業した。それでもまだ『アイカツ!』のことしか考えていなかった。だから『アイカツ!』の歌唱担当がプロデューサーを務めるアイドルオーディションに応募した。アイドルになった。しかし、それでもなお俺は、歌って、踊ることに、芯から真剣になることができなかった。そんな自分に絶望した!だったら俺はなんだったら真剣になることができる、なんだったら、自分が何かを作り出せることを、自分が人を感動させられるということを、信じることができる!

推進力は外部から与えられる。それは事実として生じている。その力の強さをどれだけ疑っても変えることはできない。しかし、その場に留まろうとする抵抗力は、世界からではなく、この、俺から生まれる!人生を賭すほどの大きさの推進力より、己の抵抗力の方が大きいと気づいたときの絶望!この絶望を、お前は知っているのか!一度でも何かに真剣になることができたお前らは、この絶望の深さを知っているのか!

映画館、隣に座っていた女性がぼろぼろ泣いていた。かたや俺は、一粒の涙すら流しやしない。普段、アイドルコンテンツや女児アニメで嘘みたいに泣き散らかしている俺が、この映画で泣けないのは、俺が、一度だって、なにかに真剣に打ち込むことができていないからだ!ちょっとくらい泣いてみろよ!俺はプリキュアの映画であまりにも泣きすぎて前に座っていた知らないオタクから文句を言われたことすらある。あの時の、10分の1でも泣いてみせろよ!おそらく隣の女性は、自分の涙を疑いはしないだろう。それは、彼女の人生が、彼女の信仰が泣かせているからだ。俺は、一粒も泣けない。泣くことができない。俺には彼方の、夕の物語が咎めにしか映らない。棄てちまえよ、そんな魂。

俺は、「凄い言葉リスト」を作っている。作品や人から発せられた凄い言葉をメモすることで、言葉に凄さを見出した時に使った自分の直観に宿る信仰を自覚し、自分の魂の輪郭を掴むためにやっている。しかし、ここで掴もうとしている魂とは、先ほど浮き彫りにされたカスみたいな輪郭の魂ではないのか。確かに俺は、一歩でも前に進もうと思って凄い言葉をかき集めた。それにも関わらず今では一歩後退し、また一歩後ずさり、己の魂にひとつだって寄与しない仕事をして、生活の外形のみならず魂までもが限定され、気づけば元居た場所に「凄い言葉リスト」だけが取り残されて、俺はそれを後ろの方から眺めている。こんな魂誰が欲した!この魂の輪郭を手で確かめて、それが、いったい、なんだっていうんだ。

彼方の人生は夕に向かって真っすぐに伸びる。ものをつくるということが魂にべったりとへばりついた彼方とは違い、これまで一度も何かに真剣になれたことのない俺の前に夕先生は現れない。なにをしても、いつも孤独だ。同じ海から這い上がり、同じ塔を目指し、同じ火を運んでもなお、身体の周りに半径2000億光年の孤独が付き纏って、俺を独りにさせる。魂だなんだと、信仰が、神秘が、己の神がなんだと言って、自分自身に達しようともがき、しかし圧倒的に魂の頑強さが足りていない。俺はずっと、誰かとなにかできるなんてそんなこと、てんで、これっぽちも信じちゃいない。魂の片割れを欲しているくせして、誰か一人でも対になれるだなんてそんなこと、全く思っちゃいない。西城樹里は『階段の先の君へ』で「そうやって、ちょっとずつ 何かになっていくしかないんだよな」と言っていた。俺と、西城樹里はなぜこうも違う!死ぬほど『デミアン』(高橋健二訳)を愛し、擦り減るほどこの言葉を読んで、それで俺はどうして未だに自分自身に達さず、自己の運命を見出さず、自己の内心に対する不安から大衆の理想へと退却している!

各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終ろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終ろうと──それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった。

ヘルマン・ヘッセ / 『デミアン』(高橋健二訳)

ほんとはこんな文章だってもう書きたくない。いったい全体、誰が俺を認めたら満足なのか。にゃるらか、滝本竜彦か、大槻ケンヂなのか。違う!こんな簡単な問の答え、もうとっくに知っている。しかし、まだ俺は認めようとしない。芸術を、魂の美しさを欲して、それでいてまだ認めようとしていない。"数分間のエール"すら咎めとしか受け取ることのできない歪んだ魂の輪郭を手でなぞって、それが何になるというんだ。そんなことは、無意味ではないか。それでも俺はどうして、この映画を観て、「全員観なさい」と言わずにはいられないのか




そんなことを考えながら映画を観ていた。観客のうち何人かはエンドロールに突入してもなお涙を流し続けていた。

俺は余韻に浸る間もなく真っ先に出口へと向かった。出口へと向かって、帰路の途中、YouTube MUSICで検索して劇中歌『未明』を聴いた。


https://music.youtube.com/watch?v=HbhQbznBDnM&si=qM2Lb7D2ixsJMnQN


ちょっと泣いた

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