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「メタバース」という、沢山ある選択肢の一つ

『メタバース進化論』という本を読みました。この本は、今流行のメタバース、簡単に言うとVR機器を用いて、アバターで人々とコミュニケーションできるサービスについて、今実際にどういうサービスがあり、そこで人々はどういう活動をしているか。そして、そこからメタバースにはどんな可能性があるかということを論じている本です。

せいぜいVRChatで恋愛とかが行われているらしいという情報しか知らなかった僕からすると、知らないことが沢山ありましたし、また、メタバースというのは、今人々が対面やインターネットで行っているコミュニケーションや経済を補完するものではないかと、思うようになりました。

一方で、そのようなメタバースでできることに対して、著者が抱いている希望については、社会学でコミュニケーション論やアイデンティティ論を学んだ身からすると、いくぶん過大な評価になっているかなと思う節も多々ありました。

良かった点1:現状の「メタバース」の多様性について知れた

著者は、まずメタバースというものの定義について


①空間性: 三次元の空間の広がりのある世界
②自己同一性: 自分のアイデンティティを投影した唯一無二の自由なアバターの姿で存在できる世界
③大規模同時接続性: 大量のユーザーがリアルタイムに同じ場所に集まることのできる世界
④創造性:プラットフォームによりコンテンツが提供されるだけでなく、 ユーザー自身が自由にコンテンツを持ち込んだり創造できる世界
⑤経済性:ユーザー同士でコンテンツ・サービス・お金を交換 でき、現実 と同じように経済活動をして暮らしていける世界
⑥アクセス性:スマートフォン・PC・AR/ VR など、目的に応じて最適なアクセス手段を選ぶことができ、物理現実と仮想現実が垣根なくつながる世界
⑦没入性:アクセス手段の一つとしてAR/ VRなどの没入手段が用意さ れており、 まるで実際にその世界にいるかのような 没入感のある充実した体験ができる世界

バーチャル美少女ねむ. メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界 (p.45). 株式会社技術評論社. Kindle 版.

の7要素を挙げています。そして現状においては、それら要素のどれを重視するかで、さまざまなメタバースのサービスが存在すると、述べているわけです。

VRというとVRChatと、あとVTuberがよくclusterというサービスで配信をやってるな、ぐらいしか知らなかった僕からすると、そもそもそれ以外にもいろいろなサービスがあり、それぞれに違いがあるということ自体が驚きでした。

そこで僕が思う疑問は、「そういう複数サービスが併存している状態は一時的なものなのか、それとも今後も併存していくのか」ということです。

つまり、先に挙げたメタバースの7要素全てを兼ね備えたオールインワンのメタバースサービスやプロトコルが現れ、人々はそこに集中していくことになるのか、あるいは今後も「どの特色を重要視するか」で、今後も複数のサービスが併存していくのかという疑問です。

メタバースの7要素は、それぞれ「この要素は欲しいけどこの要素はいらない」というように、各人によって好みが分かれるものでしょう。その点から言うと、それぞれの人の好みに合ったメタバースのサービスが存在し続けるという可能性が、高そうです。

一方、メタバースは通常のWebサービスと違い、併用するのが難しそうでもあります。身体により近いインターフェースであるが故に、サービスによってインターフェースを使い分けるのは、難しいのかもしれません。とすれば、「全て兼ね備えたサービス」が誕生すれば、みんなそれで良いと思い、デファクトスタンダードになるのかもしれません。

上記の二つの道について、今後メタバース業界がどちらの方向に向かっていくかというのは、気になるところですね。

良かった点2:「メタバース」を人々がどういう風に利用するのかが垣間見えた

この本の良かったところ2つ目は、現在メタバースにおいて活動している人にアンケート調査をすることにより、人々がメタバースをどういう風に利用するのかが垣間見えたところです。

一応、注意しなければならないこととして、現状においてメタバースを利用している人は、かなり特殊な、マーケティング用語で言うアーリーアダプターに属している人であるということです。つまり、この先メタバースが人々に普及する中で、メタバースを人々がどう利用するかは、大きく変わることが予想されるわけです。

しかしそれでも、現状人々がメタバースをどういう風に使っているか、統計データが取れたということはとても貴重です。

この本で分析されている統計データには、実際にメタバースを利用している人にどういう人が多いかとか、どんな環境で利用しているかといったことから、メタバースで恋愛をしたことがあるかなど、様々な項目があるのですが、その中でも僕が注目したのは、アバター同士でコミュニケーションするときの距離感についてです。

この本によれば、アバター同士でコミュニケーションを行う際、多くの人はアバター同士の距離は、実際に人と会うときより近くなるらしいのです。

ソーシャルVR国勢調査で「ソーシャルVRでコミュニケーションするとき、相手との距離感は物理現実と比べてどうです か?」と聞いたところ、 VRChatの場合、 なんと全体の76%もの人が距離感が「物理現実よりも近く なる」と答えています。「物理現実と同じくらい」 は20%で、「物理現実 よりも遠くなる」と答えた人はわずか4%しかいませんでした。

バーチャル美少女ねむ. メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界 (pp.291-292). 株式会社技術評論社. Kindle 版

そして更に、身体を直接接触させるスキンシップに関しても、多くの人がアバター同士で行うと回答しています。

「仲の良い相手とアバター同士のスキンシップをしますか?」と聞い たところ、 VRChatの場合、 実に74%もの方が「する」と答えており文化として根付いていることが確認できました。 物理現実では仲のよい友人相手とでもこれほどスキンシップをすることは考えづらいので、 かなり高い数字と言える のではないでしょう か。

バーチャル美少女ねむ. メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界 (pp.297-298). 株式会社技術評論社. Kindle 版.

これは僕には意外でした。メタバースにおいて会う人は、普通に会う人より素性が分からず信頼が置けないのだから、距離感はむしろ遠くなり、スキンシップも行われないのが一般的になるのではないかと、考えたからです。

ところが実際は、アバター同士でコミュニケーションを行うことは、そういった相手の素性の不確かさを超えて、むしろ警戒感なくコミュニケーションを行えるようになる効果を生むということが分かる訳で、これはアバターにおけるコミュニケーションの特性を考える上で、とても貴重な研究資料になると思う訳です。

気になった点:メタバース上での人々の活動を過大評価しすぎている様に思える

このように、この本はメタバースでの人々の活動のありようについて、とても貴重な研究資料を提示を提示してくれます。また、メタバースにおいて人々が活動することにより、現実の制限がない新しい経済やコミュニケーションが生まれるのではないかという分析・未来予測も、とても刺激的といえうでしょう。

しかし、僕が気になった点は、それらメタバースによって生まれる新しい人々の活動を、あまりに過大評価しているという点です

例えば、著者はメタバース上で、性別や容貌といった事柄が変更できるようになることで、「自分が何者であるか」というアイデンティティが、外から押しつけられるものではなく自分で決められるようになると述べます。

しかし、通常アイデンティティというものは、性別や容貌も含むのですが、多くの場合、どこの国に生まれたとか、どこの企業に勤めているかとか、誰かの子どもや親であるかとか、そういった社会的属性を指すんですね。

そして、それらアイデンティティが選択できるものになるというのは、メタバースに限らず、現代(社会学でいう「後期近代」)の社会においてはごく当たり前に行われ、推奨されていることなのです。

詳しくは上記の本とかを読んで欲しいのですが、現代の社会においては、職業も家族も性別も、全て変更可能なものになりつつあり、またその変更に際しては、「自分でそれを選び取ったものであること」であることが望ましいとされるわけです。

メタバースにおいてアイデンティティが自由に選択できるのも、基本的にはこういう現代社会全体の流れに則ったものなわけで、別にメタバースが特殊なわけではないのです。

著者はプラトンの「洞窟の影」の例えを用い、今までは一方向からみた、イデアの影しか見えなかったが、メタバースによって別方向からのイデアの影を見ることが出来る。つまり、メタバースにおける人々のあり方こそ真のイデアだと主張します。

しかし、そもそも別方向からの影がいくら増えても、それは結局影が増えるだけのことで、真のイデアの姿は分からないはずです。著者は本の中で、ことある毎に、メタバースでの人々の姿こそ、望ましい、真の人間の姿なのだと主張しますが、僕はそうではなく、新しい一面が出ただけだと思うわけです。物理世界とメタバース、どちらが真でどちらが偽というものではないのです。

メタバースでのコミュニケーションの可能性と不安について

色々気になるなかで、僕が一番気になるのが、著者のメタバース上で行われるコミュニケーションを過大評価しているのではないかという点です。

著者は、メタバースでのコミュニケーションにおいては、自分がそうありたいと願う姿でありながら、まるで実際に会っているような感覚でコミュニケーションが行えることを、「真の魂のコミュニケーションが行えるようになる」と賞賛します。

ですが、ここには

  • 「自分の望んだ姿」であることが本当にいいことか

  • 「対面で会っている感覚」があることは本当にいいことか

という二つの問題があります。

「自分の望んだ姿」であることが本当にいいことか

まず一つ目、メタバースにおいては自分の望んだ自己のありようでコミュニケーションできるそうですが、そのことは逆に言うと、「常に自分の有り様を、他人の望むように調整する義務が生まれる」ということでもあるわけです。

現実においては、自分の容貌や社会的属性といったアイデンティティは簡単に変更できません。しかし変更できないからこそ、それによって他人に嫌われたりしても、「でもまあそれが自分で、変えるの難しいしな」と諦めることが可能です。

ところが、インターネットのように、現実におけるアイデンティティを隠し、簡単に架空のアイデンティティを作り上げることができます。そしてメタバースにおいては、容貌でさえ簡単に変更することが出来る。

しかし、そこできっちり変わらない「本当の自分はこういうものであるべきだ」という信念を持っている人は殆ど居ないわけで、多くの人はそこで「自分のアイデンティティや容貌を変えられるのなら、多くの他人により評価をもらえるように変更したい」と考えるわけです。

そして、他人の評価に従って自己のアイデンティティをどんどん変更していってしまうのです。

そうなると、例えば過激な主張を持つ他人に引きずられて、自分も過激な主張をするような人間になったり、あるいは、あんまり自分をコロコロ変えすぎて、「本当の自分が分からない」という的不安を覚え、メンタルを病んだりすることがあるわけです。

(もう、このブログを購読している人は耳にタコができるぐらい聞いているだろうけど、このようなインターネットコミュニケーションの危険を描いているゲームこそが『NEEDY GIRL OVERDOSE』

で、だから僕は、真面目にインターネットコミュニケーションについて考えたい人は全員このゲームをやるべきだと言っている)

メタバースでのコミュニケーションにおいては、より変更出来る要素が増えることにより、上記のような病的状態に陥る危険も、より増えるのでは無いかと、僕は考察するわけです。

「対面で会っている感覚」があることは本当にいいことか

次に、「『対面で会っている感覚』があることは本当にいいことか」という問題について。

私たちは普段、実際に会って会話するコミュニケーションこそが真のコミュニケーションで、それに対し非対面で行われる文字のコミュニケーションには余分な不純物があると考えがちです。だから、よくインターネットでもめ事が起きたとき「実際に会って話しましょう」という人も現れるわけです。

しかし、本当にそうでしょうか?フランスの哲学者ジャック・デリダは、声でのコミュニケーションが至上で、文字でのコミュニケーションがその下にあるという考えを、「音声中心主義」と批判しました。

コミュニケーションの媒体は一般的には音声言語(パロール)と文字言語(エクリチュール)に分けられます。そして前者が後者に優位すると言う考え方を「音声中心主義」という。

表音文字であるアルファベット文字の伝統では根源的なものとして「パロール(音声言語)」が優位に立ち「エクリチュール(文字言語)」は派生的なものとしてこれに従属するとされます。

デリダによれば、この「音声中心主義」は「ロゴス中心主義」と結びつき「西洋中心主義」として世界の思考を隠然と支配しており、構造主義的言語学の祖であるフェルデナン・ド・ソシュールも、西洋文明を批判していたはずの人類学者レヴィ=ストロースもこの「西洋中心主義」の思考から逃れてはいないという事です。

(略)

一般にコミュニケーションは音声言語による「直接コミュニケーション」と文字言語による「テレ(遠隔)コミュニケーション」に区別されます。

直接コミュニケーションは対話の送り手と受け手は直接対面している事から話し合いによっていつかは相互理解による合意に達するとみなされます。

デリダの郵便モデルはまさにそうした想定を脱構築する。デリダはコミュニケーションとは総じてテレコミュニケーションとして理解します。全てのコミュニケーションには常に隔たりが生じる。面と向かって話合えばきっとお互いわかりあえるいうのは素朴な幻想に過ぎない。我々は理解したつもりがつねに誤解している。音声言語による直接コミュニケーションも郵便モデルから逃れられないという事です。

また、カナダのメディア学者マーシャル・マクルーハンは声のメディアを「ホットなメディア」、文字のメディアを「クールなメディア」と呼び、それぞれ長所と短所があると分析しています。

つまり、対面での音声でのコミュニケーションも、非対面の文字でのコミュニケーション、どちらも長所と短所があり、どちらが真であるとか、どちらがどちらかに従属しているわけではないということです。

対面での音声のコミュニケーションの強みは「感情」の伝達しやすさにあります。文字で書くより、コミュニケーションで発せられるメッセージにどういう感情が込められているか分かりやすく、誤解が避けやすいです。

しかし一方で、「感情」を込めやすいが故に、そのコミュニケーションは危険も伴います。声のコミュニケーション特有の危険性については、以前はてなブログの方で考察したのでそちらをご参照ください。

また、「感情」を込めやすいが故に、その「感情」が不必要になるコミュニケーション、例えば討論とかには向いていません。

例えば僕は、結構他人の意見をインターネット上で批判することが多い人間なんですが、しかしそういう僕も、実際オフ会とかで面と向かって話すと、その人が変なことを言ってても、なかなかそれに面と向かって反論することはできないんですね。どうしてもその場の空気に流され、不本意ながらも同調してしまう。

そういう身からすると、非対面の文字でのコミュニケーションの方が、対面での声によるコミュニケーションよりよっぽど自分の言いたいことが言えるわけです。

もちろんこれは人によって異なっていて、中には文字で伝えるより声で直接言う方が自分の言いたいことを言える人も居るでしょう。声と文字、どちらのコミュニケーションメディアがより適しているかは、そのコミュニケーションに参加する人の性格や、状況によって大きく変わるわけで、「どちらかが真である」というものではなく、両方存在することが重要なのです。

なぜ人々は「真のイデア」をメタバースに求めるのか

以上のように、僕はあくまでメタバースを、「世の中に沢山ある選択肢の一つであり、いままで満たされていなかったニーズを補完するもの」として捉えています。

しかし一方で、著者やその他メタバース愛好家のように「メタバースに生きることこそ真に幸福な生き方だ!」と主張する気持ちも、理解は出来るんですね。

つまりそれだけ、今のリアルやインターネットに、不全感を感じ、「ここでは自分を偽らなくてはならない」と考えている人が多いということなのです。

そういう人にとって、メタバースは、そういう「自分を偽る」という抑圧から解き放ってくれる、まさしく救世主として写っているわけです。

重要なのは、技術では無く、そこでどんな関係を作ろうと思うか

ただ、僕は、そういった「自分を偽る」抑圧から解放してくれる場を作るのに必要なのは、メタバースのような情報技術の進歩では無く、「どういう関係を作るか」という、関係形成の問題なのだと考えます。

僕は、何か契約とか対価が必要なのでは無く、「ただ共に居て、肯定し合える関係」、存在論的安心を持てる紐帯こそが必要なのだと、考えています。

(「存在論的安心を持てる紐帯」に関しては、以前別の記事

で説明したので、そちらをご参照ください)

メタバースがもし救世主、「真のイデア」のような存在になるとすれば、そういった関係を、作れる場になるかかどうかに、かかっているのでは、ないでしょうか。

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