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いわゆるホモソに足りないのは「ナナメの関係」じゃないかな?

僕はあまりこういう、バーチャルではない生身のYouTuberの動画を見ることがないので、上記の記事、極めて興味深く拝見しました。

若者だって悩んでいる

読んでいてまず最初に思ったのが、「やっぱり若者だって、そんな軽やかに生きているわけじゃないんだよなぁ」ということです。

私たちZ世代には、心の底から「親友」ないしは「友達」と言える人がいるのだろうか。
好きな時に、条件の合う人を選択し、関係を持つという、効率的な関係構築が可能なネット社会。所謂「デジタルネイティブ」である私たちは、物心ついた時にはパソコン、スマートフォンなどで、世界中といつでもどこでも繋がれる方法を獲得し、さまざまな恩恵を受けてきた。しかし、一見恵まれたこの環境は、私たちがリアルでの人間関係を構築することに大きな影を落としていると考えられる。
私たちは今日に至るまで、ネット社会で人間関係を構築してきた経験のほうがリアルでの関係構築に比べ大きい。しかし、一方的に、好きな話だけをしていられるネット上での関係は、リアルでの人間関係では通用しない。食事中の気遣いや、相手の空気感や心情を察知する方法を、日に日に短く省略されていく文字たちが打ち込まれた文面と無機質な通知音は教えてくれない。恋人ができない、友人がいない、親友がいない、作り方がわからないといった「リアル」にアプローチすることに困難を覚える視聴者は、「リアル」のなかで一生モノの仲間と出会い、互いの人生を賭けてコンテンツを作り出している上記3グループのような男性グループYouTuberに強い憧れを抱いているように思う。

僕が大学で学んだころの若者論では、現代の若者の友人関係について。「友人関係希薄化論」と「友人関係選択化論」という、二つの説がありました。

「友人関係希薄化論」というのは、要するに携帯電話やインターネットといった技術の発達によって、若者は他人とリアルな関係を築きずらくなり、結果として孤立するようになってしまったという説です。まあ、TVのワイドショーとかで自称教育評論家とかがよく言う話ですね。

それに対して、「友人関係選択化論」は、確かにコミュニケーションツールの進歩によって、友人関係というものは変化したけど、しかし若者はコミュニケーションツールの使い分けによって、「学校での関係」「趣味での関係」「仕事での関係」というような、それぞれのつながりを持つようになっており、決して友人というものを持たなくなっているわけでは無いという話です。

で、社会学における計量分析によれば、支持されるのは「友人関係選択化論」だったわけです。つまり、若者は別に友人関係を作らなくなったのではなく、属する場ごとに友人関係を作ろうとしているのだと。かつての若者の友人関係のように、生活の全面に置いて接するような「親友」というのはいないけど、むしろそういう親友の鬱陶しさを避けて軽やかに生きているのだと、そういう議論が、10数年前は盛んだったわけですね。

ところが上記の記事で述べられているのは、そういう「選択的な友人関係」というもので補いきれないものがあるということ。そして、その補いきれない者を補うために、若者は男性YouTuberグループにはまるのではないかという、議論な訳です。

「社会的に認められない観念を持った人間同士でつるむこと」自体は、そんなに否定しなくていいんじゃないかな

そして筆者は、そういった男性YouTuberのグループというのは、いわゆる「ホモソーシャル」な関係にあり、そういったものが若者に求められることに理解を示しつつも、その「ホモソ」ノリが若者の間に蔓延することに、フェミニストとして危機感を抱いているわけですね。

「ホモソーシャル」について、詳しくは

というわかりやすい解説記事がnoteにあるので、そちらを参照してほしいのですが、簡単に言うと「同性愛嫌悪」と「女性蔑視」を介して繋がり合う男性同士の紐帯のことです。

で、まあ確かに記事に出てくる動画を見る限り、これら男性YouTuberの動画を見る限り、彼らの繋がりがホモソーシャル的な繋がりであると言えるでしょう。これを見て、筆者がフェミニストとして危惧を覚えるのももっともです。

しかし、これは僕が男性というマイノリティの側にいるから甘く見ているだけなのかもしれませんが、そういったホモソーシャルによって具体的にある女性や同性愛者を差別・排除するのではなく、「そのノリを共有できる者同士」で居る分には、そんなに否定するべきものなのかなと思う訳です。

なぜ僕がこう思うかと言えば、彼らの紐帯というのは、「社会における繋がり」というよりは、それ以前の、いわゆる「親密圏における繋がり」であり、そこにおいては、多少社会のルールに反することであっても許されてもいいのではないかと、思うからです。

といっても、これだけじゃ専門用語の羅列でよく分からないと思うので、具体的に解説しましょう。

筆者の言うとおり、TVといったマスメディアではホモソーシャル的な下ネタは排除されてきています。このことは、現代の日本社会においてはホモソーシャル的なノリはあまり許容されなくなってきていることの証左と言えます。

しかし、そうやって社会が変わっていっても、個人個人の内面がそれについて行くには時間がかかるわけで、中には未だホモソーシャル的なことを心の中で思っている人も居るわけです。しかし、それを社会で発露することはもうできない。そうなると、社会と自信の内面に不一致が生じ、「自分が周りから認められていない」という不安を抱くようになるわけです。そしてその不安が病的なまでに拡大すると、それこそ韓国のソウルで起きた江南通り魔殺人事件

であったり、小田急通り魔事件

のようなことにつながっていくわけです。

そのような不安にどう対処するか。一つの方法としてあるのが、公共のきちんとしたルールがある社会とは別の、親密な関係を持つもの同士の場所に、「多少反社会的な観念を持っていても、承認・肯定してくれる場所を持つこと」なんですね。

そしてそういう場所で、「例え社会から認められないような観念を持っている自分でも、存在していて良いんだ」という安心(これを「存在論的安心」と言います)を持つことが、逆説的に、反社会的な観念を和らげ、社会適合を促すことにつながるわけです。

こういった「存在論的安心」を得られる場所としてよく挙げられるのは、メンタルヘルスに問題を抱えた人たちの自助グループです。自傷やオーバードーズ、過食といった問題行動を抱えている人は、「それが社会的によくないこと」であることは十分分かっているわけです。ですが、それを本人たちが一番良く分かっているからこそ、にもかかわらずそれら行為をしてしまう自分に嫌悪感を抱き、その不安が問題行動へとつながるわけです。

それに対して、自助グループでは「問題行動をしていたとしても、それを否定することなく吐露することができる」わけです。そういう場を持ち、「問題行動を起こすような自分でも、周りに認められるんだ」という安心を得ること、実はそれこそが、問題行動を起こさないようになる一番の近道だったりするのです。

上記のように考えると、「ホモソーシャル的なノリはあらゆる場面で許さない」という厳しい態度でいることが、本当にホモソーシャルの根絶につながるとは思えなくて、むしろ重要なのは、「ホモソーシャル的な観念を持っていても良い親密な関係」と「そういったものが許されない社会」を、きちんと分けて考えることじゃないかと、そう思う訳です。

重要なのは、「自分たちとは違うけど、尊重すべき人たち」と言ったようなナナメの関係を作ること

そして更にいうならば、「ホモソーシャル的な観念を持っていても良い親密な関係」と「そういったものが許されない社会」以外の関係性も重要じゃ無いかと思う訳です。

なぜ男性YouTuberグループのような人たちが、ホモソーシャル的なノリを前面に出した動画を出してしまうかと言えば、彼らに悪意があると言うよりは、端的に「そういったノリで傷つく人がいるということを知らない」というのがあると思うのですね。

上から「そういうホモソーシャル的なノリはよくないよ」と押しつけてくる大人たちや社会というのは存在すると思うんですよ。むしろ、そういう大人たちや社会に対する反抗として、こういったホモソーシャル的なノリが行われているとも言える。ところが、「実際そういうホモソーシャル的なノリをよしとされると傷つく人が居る」ということは、実はあまり見えていないのではないかと思う訳です。

そういう人たちは、自分たちとは違う異質な人だから、「親密な関係」には居ません。一方で、「彼らの上位に居て、ルールを押しつけてくる人たち」でもないわけです。ですが、実は現代の教育学においては、そういう、親密な関係を結ぶ同士、いわゆる「ヨコの関係」と、命令や指揮を伝える、「タテの関係」以外の、ヨコでもタテでもない「ナナメの関係」が、社会性の獲得においては重要だと言われているわけです。

そして、そういう「ナナメの関係」がホモソーシャルノリの改善につながるんじゃ無いかと考える、一番の理由が、僕が好きなVTuberの界隈が、まさしくそういう関係に満ちた関係であり、だからあまりそういう「ホモソーシャル的な悪ノリ」が見られないんじゃないかと思う訳です。

まあ、これはまさしく我田引水な議論になってしまうんですが、例えば僕の好きな「にじさんじ」というVTuber事務所は、結構男性VTuberとかが多く居て、それこそ上記で挙げられたたような男性YouTuberグループに似たグループも多くいるんですね。

しかし彼らの動画には、上記の男性YouTuberグループの動画に見られるような嫌なホモソノリというのは(ひいき目に見ているからだけかもしれませんが)あまり見られない。

しかしじゃあ彼らが礼儀正しい聖人君子な人たちであるかといえば、そんなことは全然ないわけです。むしろ、炎上スレスレのネタにも多々手を出すわけです。

じゃあ、にも関わらずなぜ彼らの動画にイヤなホモソノリが無いかと言えば、推測するに、彼らが属しているにじさんじという事務所のライバーの多様性だと思うんです。

にじさんじの事務所には、同性愛者であることをカミングアウトしている人も居れば、あえて男性でも女性でもない性自認を持つ人も居ます。つまり、「ホモソーシャル的なことをすれば嫌がるんだろうな」という人たちが、単なる観念では無く、人格を持った存在として想像できるわけです。

そういう人たちと自分たちはそんなに親密と言えるほど仲いいわけでは無いかもしれない。でも、同じ事務所に居る同士にそういう存在がいるのなら、そういう人たちを傷つけるノリは止めようとなるのだと、僕は推測しているんです。

そういった「自分とは異なる考えを持っているけど、尊重すべき人たち」との出会いの機会を作ること、実はそれこそが、イヤなホモソノリから脱却するのに、良い方法なんじゃ無いかと、思う訳です。

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あままこ(天原誠)
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