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生まれ変わっても

3月だ、2024年が明けて3ヶ月目
大丈夫だろうか、わたしは時の流れについていけているだろうか
この1年半弱というもの、今日にいたるまで生きた心地がしないほど苦しい日々があった。壊れたもの失ったものは多く、朝まで眠れず泣き通した夜も数知れない。ついに社会人となる節目を前に、これまでの事をここに書いて、置いておきたい。


1年半前はコロナ禍が抜けず、ご時世的に希望の業界に就くのが難しかった背景もありながら、毎日が楽しくてやりがいを感じ、あの場所(バイト先)の正社員になることを真剣に考えていた。
そこで築いた心から安らぐ人間関係、居場所
親友
そして同じくそこで出会い、過去になく強烈に好きになったあの人。
これらを、詳細は書かないけれどそれはそれは最悪ないきさつで、一気に失うことになった大学4年生、2022年の秋


ひとり放り出されてお先真っ暗な中、ふり出しに戻って将来を考え直すことになった、就活だ。それと同時に大学生最後の学期が始まり、なんとしても不足単位をとらなきゃいけないのと、お金は切実に必要だからすぐ新しいバイト先を見つけなきゃいけない。
そして過去最悪で、未知の領域まで深く傷ついた自分の心をどうにかしないといけなかった。

結果、それらの何ひとつも上手くいかなかった



まず心が治らなかった。基本的に毎日布団にこもって泣いて、夜も眠れず朝まで泣いて。いくら泣いても傷は癒えない、それどころか、時間が経つほど立ち直れないことに対する不安と焦りも大きくなって、居場所がなくなったことによる孤独が深まって、死にたさが増していった。


まったく立ち直れないまま、あの場所を辞めた2週間後には新しい飲食バイトを始めた。始めの数ヶ月は明るく元気を取り繕っていたけれど、だんだんと何があったわけでなくても涙が溢れて、それを隠しながら働くようになった、新しいバイト先にいながら、あの場所がフラッシュバックしていた。そしてその頃、上の人から嫌がらせを受けるようになって、いつも限界に近いところで耐えていて、お皿を落として割ったり、呆れるほどくだらないミスをすることが増えていった。自責、自己嫌悪が止まらなくなった。


大学は留年した。飲食バイト先と大学との板挟みになって、わたしはますます家では泣いて寝込んで動けなくなっていた。それでもできる限り家から必死に這い出るように、片道2時間半かかる大学に通い、課題を出していたけれど足りなかった。


留年が決まったことで、かつて当たり前だと思っていたストレートな人生からは道を踏み外し、学費だけが無駄に膨れ上がった。
大学の友達には留年した事実を言い出せず、黙って卒業式を欠席し、それ以降は連絡がきても引け目を感じてあっさりうけ流してしまい、疎遠になった。

就活は正直あきらめていた、それどころじゃなかった。飲食バイトを始めたばかりの頃は、自分が通常に立ち直るまでの間だけ、ここでフリーターでもして収入を保てればいいと思っていたのだけども……それさえも不可能だとこの頃には痛く予感し始めていた。



こんな状況で2回目の大学4年生になった。
どんなに調子が悪くても秋学期よりはまめに大学に通った、そうでないと不安と自責に押し潰されてしまいそうだったから。
通学電車やバスの中でよく下を向いて泣き、スマホのメモに遺書を文字打っていた、常に不安で苦しくて悲しかった。


6月になって就活も始めた。こんな調子では就活だって精神的にギリギリな、大きな負担だとわかっていながらも、飲食バイトはあと1ヶ月さえ続けられる自信がないほど追い詰められていて、このままでは本当にあてがない無職になるのでは…とまた恐怖に駆られたからだ。
当然、大学4年の6月から始めるなんて出遅れている、わたしが希望していた業界はそもそも人気が高く、就活を始めた時点でほぼ不可能だから、せめてその業界に少しでも触れる職場にしようと考えた。自分1人ではあまりにも心許なくて、エージェントに頼りながら就活して、7月末には内定を貰い、そこに就職を決めた。何社か見ていた中で1番希望に近くてマシなところだったのと、自分の気力の限界を考えてそこにした。進路が定まるだけでありがたかった。


就職先が決まった安心感で糸が切れたのか、ほぼ同時に飲食バイトは辞める運びになった。限界をとうに超えてしまっていた。ちゃんと1ヶ月前の6月には辞めたい旨を上の人に伝えていたのに「あと2ヶ月は働いてもらわないと困る」と言われて、なんとか8月末まで耐えて働く予定でいたけれど、もう本当に無理だった。
出勤2分前まで泣き、働いてる途中でももはや隠しきれていないほど泣き、退勤してまたすぐ泣いた。最後はこんな状態だった。


大学は結局、1年留年した。


春までに卒業すれば、留年は就職に影響しないと後で確認がとれたので、わたしはまだどうにか、今も生きているんだと思う。
8月、本気で死と向き合った夏だった
確実に実行できる手段と場所を調べては、毎日それしか考えていない、いま振り返れば本当に危なかった
9月にはメンタルクリニックにかかり、うつ病の診断を受けた。

それからはあまり覚えていない、入社前の準備をしたり、たまに友だちに外へ連れ出してもらってたけど、それ以外はほぼ同じ1日の繰り返しで、泣いたり寝込んだり、起きてもぼんやりしていた。生きているというよりただ死んでいないだけだった。気付いたら体重はふつうに元気だった頃より6キロ落ちた。


大学の先生にはこの状況を相談し、秋学期は私の状態を踏まえながら評価していただけることになった。そのおかげで焦りと不安をできる限り手放して、少しずつ身も心も休むことに集中できるようになっていった。
そしてわたしはこの春、大学を卒業して就職する。自分1人ではなにもできないままここまで来てしまった。
大学生を5年、そのうちの3年間はコロナ禍のせいで、ほぼあってないようなものだった。そして留年した1年間はまともじゃない。
わたしの「大学生」ってなんだったんだろう


わかっている、こんな結果に辿り着いたのは他の誰のせいでもなく、自分が原因だということ。
わたしがもっと頑張れなかったから
もっと早く立ち直れなかったから
他のことに多く悩んで消耗して、大学を優先しなかったから。
全部、事実として私が悪かった


この5年間で築いたものがことごとく壊れて、消え去ってしまった。切れてしまった縁の数がなによりそれを物語っている
あの場所のみんな、あの人、正社員になる予定で楽しみながら頑張っていた仕事、大学の友だち全員。

そして4月からは社会人として、また新しい環境に飛びこんでいくんだ
大晦日から年が明けたときにも感じたんだけれど、もう、これから自分が跡形もなく変わっていってしまうような気がしてる、節目として一度ここで死に、生まれ変わるような。


1人で明るく生きていけるように、責任を持って軽やかに道を選んでいけるように、自分で自分を楽しませてあげられるように



死んでもなお、憶えているのは辛く苦しく傷ついたことより、心から幸せだった暖かい記憶であればいいと思う。
どれだけの時間と経験を重ねて、自分の中身が生まれ変わっても、その記憶がお守りでいてほしいと願う。またどこかで会えると信じて


あの人が「いいね」って言ってたから、わたしの笑顔と笑い方は、あの頃と変わらないままでいるよ、これからも


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