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明日へ向かって 69

 多喜田本部長は、希美の勝手な想像とは違い、日向ぼっこをしている猫のように柔和な眼差しをたたえた白髪交じりのスリムな紳士だった。
 本部長というからには、何となく立派な体格をして割れ鐘のような声でがなり立てる政治家のような人物を希美は想像していただけに、自分勝手なイメージとは異なる多喜田のスリムな体型と柔らかい眼差しに、ほんの少しだけ気持ちが和らいだ。
 打ち合わせる部屋が、会議室のようにだだっ広い空間ではなく、六脚ばかりの椅子が並ぶ小さな応接室だったこともよかったのかもしれない。
 壁には小さな絵が一枚掛けられてあり、窓際にある棚には何も活けていない白い花瓶がひとつだけ置いてあるこじんまりした部屋だった。
 榎本から資料が手渡されると、本部長への説明会は始まった。
 榎本から簡単にこれまでの経緯について説明がなされた。二枚目のスライドからは実際の活動を進めてきた者から、という前置きがあって希美が紹介された。
「じゃあ、よろしくお願いします」
 それまで机の置かれた資料に注がれていた多喜田の視線が希美に向けられた。希美の身体にピリリと緊張が走ったが、多喜田の発した一言に希美は驚いた。
「今日はね、できるだけ活動のリアルなところが知りたかったので、森下さんに来ていただくことにしました。何でも包み隠さず聞かせてください」
 はい、よろしくお願いします、そう答えたとき、不思議にすとんと肩から緊張が抜け出ていくのを感じた。あとは、練習してきたとおりにプレゼンテーションを再現していくだけだった。
 言葉は澱みなくスラスラと出てきた。ところどころで頷く多喜田を見ながら、希美は落ち着きを払って話すことができた。説明はものの二十分もしないうちに終わり、あとは多喜田からの質問が続いた。
 ほとんどが、希美に感想を求めるような問いかけであり、それらに希美は素直に思うところを答えていけばよかった。中でも一番質問が集中したのが、六甲の家を訪問したときのことだった。
「これは誰からの発案ですか?」
「誰からというわけでもなかったように思います。たしか藤川さんが、実際に薬が使われる医療現場のニーズを聞くべきじゃないか、というようなことをおっしゃってそこから話が進んだように思います」
 隣で榎本も頷いている。
「そうですか。実際にこちらを訪ねてみて、例えば、森下さんはどのように思いましたか?」
「そうですねえ」
 一言では表しきれず、希美はそこで言い澱んだ。
 六甲の家で希美が学んだことは、父の闘病生活と死を見つめ直したこと、終末期医療の現状、それと坂野医師の一重夫人から聞いた、ひとは、そのひとらしく、生きてきたように死んでいく、ということだった。
 それと、長原が話題にした、本当に必要な薬の数のこと、それがホスピスの現場でも必要最小限の薬でがん患者の疼痛など症状を抑える緩和ケアに使われているという話と奇妙に一致していることも印象深かった。
「ホスピスでは、治療を目的とする他の病院とはかなり違うように思いました」
 ほう、と多喜田が感嘆の声を上げた。それから、希美は、六甲の家で学んだことを、父親の闘病生活とともに語り始めた。それまで柔らかな表情であった多喜田の眼差しが急に引き締まった。
 多喜田は机の上で両手を組んで、希美の話に静かに耳を傾けた。希美が話し終えても、多喜田は視線を机の上の両手に注いだままじっとしていた。まるで、しばらく話の余韻にでも浸っているかのように。
 次に重い口を開いた多喜田から発せられた言葉は、意外なものだった。
 それは多喜田の父の話だった。彼の命を奪ったのもまた、がんだったのである。
「あの頃は、本人にがんを告知しないケースも多かったからね」
 まるで昔を懐かしむように、遠い眼差しで多喜田は語り始めた。

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