見出し画像

明日へ向かって 50

 夏は頭上から降り注ぐだけではなかった。アスファルトから巻き上がる熱が、砂風呂のように全身にまとわりついた。昼間は、木陰でさえ逃げ場にならなかった。
 実験室で白衣を羽織り、保護具を着用していると背中や手の平にじっとりと汗が滲んだ。節電対策のため、エアコン設定温度は二十八度。Tシャツ姿でも、作業をしていると、書類が肘や腕に引っ付いた。そんな中、分析装置のある機器室だけはしっかりとエアコンが利いていて、まるでオアシスのようだった。ここでは上着を羽織っていてもまったく暑さを感じることはなかった。
「今度の夏休みにな、家族でディズニーランドに行くねん」
「いいなあ。わたしのオススメは、ピーターパンですね」
 希美と長原が間近に迫った夏休みについて話をしていた。
 そういえば、ここ数年来夏休みはどこにも出かけていない。暑さが苦手な上に出不精な希美には、クーラーの利いた家でゴロゴロとして過ごすのが一番の休息だった。社会人になってからというもの、希美にとっての夏休みは、そうして家に閉じこもっている間に特急列車のようにビュンと通り過ぎていくものと相場が決まっていた。
 クーラーの利いた家でゴロゴロしていると、そんなぐうたらしているからあんた結婚相手も見つからないのよ、と姉から揶揄されるに違いない。暑いばかりでどこにも出かける気になれない夏休みなんてちっともありがたくないとさえ希美は思っていた。
「森下さんは、どっか行く予定とかあんの?」
「いえ、わたしは別に」
「暑いの苦手やもんなあ」
 長原ご指摘通りですとばかりに、希美がへの字口で相槌を打っているところへ啓大がやってきた。
 啓大は、最近長原のところへちょこちょこと訪れるようになった。合同ミーティングを境に、二人の距離は急速に縮まった。風土改革活動以外に、実験データを持って啓大が長原に相談を持ちかけることが多くなった。
 啓大は、当然のことながらベテラン研究員からの知恵を拝借できることをありがたく思っている。長原もこれはと見込んだ若手研究員への教育には惜しみなく時間を割くタイプだったので、横から見ている希美には、そんな二人の関係が微笑ましく、また羨ましく思った。
「藤川くん、森下さん、夏休みヒマなんやって」
「ちょっと、やめてくださいよ。何かわたしが寂しい女みたいじゃないですか」
「えー、そんなことまで言ってへんのに。何か語るに落ちたみたいやねえ」
 もう、と希美がふくれっ面を見せたところに啓大が真顔で訊ねてきた。
「マジでどこにも出かけないんっすか?」
「そう、暑いのが苦手なんやと」希美の代わりに長原が答える。
「だったら、もしよかったらなんすけど、うちのバンドのライブとかどうっすか」
「そか、啓大バンドマンやったな。夏休みライブやるんか」
「ええ、ツレのバンド集めてちょっとちっちゃいフェスみたいなのやるんすよ」
「ええやんか、森下さん行っといで」
「勝手に決めないでくださいよ」
「いや、森下さんがもしよかったら、ってだけで」
「藤川さんのバンドってパンクとかでしたっけ?」やや遠慮がちに希美が訊ねた。
「うん、そう。あ、でもメロコア系のフェスだからそんなに激しくないし、結構女の子とかも来ると思いますよ」
「ええなあ、楽しそうやな」
「もちろん、長原さんもいかがっすか」
「おっと、俺は家族サービスがあるからな」
「ご家族でディズニーに行かれるんですって」
「いいですね。ま、ディズニーには勝てませんが、もしよければ、うちのフェスにどうぞ。一見の価値、ありますよ」
「とくに俺のギターが、ってか」
「いや、別にそういうのんじゃないっす」
 たしかにヒマはある。一日くらいなら出かけてもいいかもしれない。希美は思った。
「フェスって夜ですか?」
「うん、夕方くらいから夜まで」
 夜だったら外の暑さも気にならない。
「前売りなら、特製ステッカーも付いてきますよ!」
「へえ、じゃあ行こう、かな」
「毎度あり!」
 希美の答えを聞いて、思わず啓大のテンションが上がった。
「俺、ステッカーだけくれ」長原が横から口を挟んだ。
「ダメっすよ。前売りチケット枚数ときっちり揃ってるんですから」
「ケチ!どうせチケットなんてどっさり余るんやろ」
「あー、ひどいなあ。結構売れ行きいいんすけど」
 バカ言え、と長原が言って、三人で笑った。これで夏休みの楽しみがひとつだけできた、と希美は思った。

読んでいただき、ありがとうございます!