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明日へ向かって 54

「分かりました。でもこないだのように議論の場が持てただけでも私はよかったと思います」
 長原が皆の気持ちを代弁するように答えた。
 そうか、それならよかったと答える榎本の言葉を聞いて、このことを言うために榎本は今回のミーティングにわざわざ参加してきたのではないかと、希美は邪推した。
 長原は、榎本の発言は、高津製薬側の自主規制ではないかと感じた。何かを漂わせているように見えて、それはうちの会社らしい保守的な選択が漂っているように思えたのだった。
 啓大は、合同ミーティングで話されたような内容について、三河製薬から何らかの圧力がかけられた可能性について考えていた。とくに長原さんの発言に対して、三河製薬から参加した三人が社内でどんな報告をしたか知れなかった。
 だが、実際には榎本に向かって何かを問いかけようとする者は誰もいなかった。それから、合同ミーティングで話題になった、必要な薬の数について話し合った。
「本当に必要な薬の定義って何だったんですか?」
 希美が素朴な疑問を投げかけた。
「そうやな、簡単に言うと、確実に効くと分かっていて、それでいて副作用も少ないのがいいけど、そんな薬はないから、せめて使い方をコントロールできる薬やないかな」長原が答えた。
 ふんふんと頷いてはいるが、希美はいまいち要を得ていないようである。それに気付いた長原が付け加えた。
「例えば、あのとき話題にした最小限必要な薬のリストの中にアスピリンがあるんやけど」
 アスピリン、世界一有名な鎮痛薬だ。それくらいなら希美も知っている。
「アスピリンの歴史は長い、というか、世界で初めて人工で合成された医薬品やな。でも、たくさん副作用があることでも知られてる。一番ポピュラーな副作用は、消化管潰瘍」
 そこで長原はペットボトルの水を一口含んだ。
 アスピリンは、一九〇〇年より少し前にドイツのバイエル社から発売された医薬品である。ヤナギの木から抽出されたサリチル酸をアセチル化することで副作用が軽減されるところに着目し、アセチルサリチル酸人工的に合成した。それがアスピリンである。
「でも、アスピリンは、いまの医薬品開発の基準に照らし合わせると承認されないやろうって言われてるんや。副作用が理由でな」
 へえ、と希美と啓大が同時に驚きの声を上げた。
「それでも、いまもアスピリンは愛用され続けてるやろ」
「一度認可されちゃったからってことっすか?」啓大が聞いた。
「まあ、それもあるやろうけど、結局、有効性も副作用もよく分かってるし、用法用量、つまり使い方もよく分かってる。人類で長らく使われてきたことが何よりもアスピリンの存在意義を証明してくれてるっちゅうことやな」
 他にもこんな話がある、と前置きして、長原が話し始めたのはサリドマイドのことだった。睡眠薬として販売されたサリドマイドは、つわりや不眠症の薬として妊婦に広く服用され、あの催奇形性という被害をもたらした。
「最近になって、日本でサリドマイドが骨髄腫の薬として再承認された」長原が言った。
「あ、それ、テレビで観ましたよ」啓大が言った。
 希美は知らなかった。あれほどまでに被害を出したことで有名なサリドマイドが何故、今頃になって再承認されたというのだろうか。
「サリドマイドに、がん組織への毛細血管の成長を妨げる効果があることが分かったんや」
 この血管新生阻害作用が、胎児には催奇形性を発生させるが、がん治療には効果があるとして見直されたのである。ブラジルではすでにハンセン病の薬として認可されている。

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