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明日へ向かって 70

 多喜田の父もまた、がんの発病とともに余命宣告を受けた。ただ、希美の父と違ったのは、その宣告が彼の妻ひとりだけに向けられたということだ。
「当時はとても残酷に思えたもんだよ。親父は酒も煙草も止めることなく普段通りの生活を続けてるし、おふくろは親父の前では気丈に振る舞わなければならん」
 母の気の弱りようが日に日に増しているように思えた多喜田は、父に真実を打ち明けるべきだと、母に告げた。
「しかしな、おふくろは、ああ見えてお父さん、とても気が弱いから、と言ってな」
 多喜田の度重なる説得にも、母は最後まで応じなかったという。
「あとから思い返してみるとな、おふくろはきっと、親父に最期まで親父らしく生きてほしかったんじゃないかな、最近そう思えるようになった」
 多喜田の父は、地元商店街の会長を務めたり、町おこしといった地域振興活動にも精力的に参加したりするような、近所でその名を知らぬ者はいない名士のような存在だった。
 多喜田の幼い頃から、うちは何でこんなにひとの出入りが激しいのだろうかと不思議に思うほど、町中から父親のところへ相談を持ちかけてくる人々がひっきりなしに家を出入りした。
 夫婦がそれぞれ互いの悩みを持って訪ねてくることすら頻繁にあったという。
「親父はひとの悩みはいくらでも聞くけど、自分の悩みや愚痴、弱音の類は人前では一切漏らしたことがなかった。でもそれも、長年の付き合いや自分の置かれた立場があるからこそ、しゃんを背筋を伸ばしているようなところもあったんだな」
 がんが判明する少し前から体がいうことをきかんとか、ちょっと今日はしんどいから、などとひとを遠ざける日もまれにあった。
「そんな親父の変化の影に、おふくろは、本来は心配性で気弱な親父の姿に気付いていたのかもしれない」
 多喜田の父は、一度だけ手術を受けたが、がんは思ったよりも進行していたため、ほとんど取り除くことはできなかった。手術後は本人たっての希望もあって、しばらくしてから退院が許された。それからは以前と何ら変わりない生活を家で過ごした。
 同じ年の暮れに一度体調を崩して寝込んでいたが、年が明けて親戚、近所からの挨拶で家にひとが集まると、部屋から出てきて、まったく病人には見えないほど元気に明るく話をした。
 そして一月も終わりに近づいたある朝、突然昏睡状態に陥り、病院へ搬送されたその夜、静かに息を引き取った。皆への挨拶が一通り済んだことにまるで満足したかのような旅立ちだった。
 彼の机の引き出しには、家族、親戚、近所の親しい友人、旧友などひとりひとりに宛てた手紙が百通近く仕舞われてあった。ひとりずつにつらつらと書き連ねるわけでなく、便箋一枚に短いながらも明るく力強い言葉がひとりひとりへ向けられてあった。
 彼は自分の死期が近いことを知っていたのである。近しいひとに宛てられた手紙はいずれもシンプルな言葉で綴られていた。
「私は長男だったんだけど、父から贈られた言葉はこうだった。『もっと軽薄になれ。お前の生真面目さは、きっと軽薄さが備わってこそ活きてくるであろう。兄弟とともに仲良く、家族皆が健康であらんことを願う』と、こんな感じだったよ」
 ひとは、そのひとらしく、生きてきたように死んでいく。その言葉をまた噛みしめるように希美は多喜田の話に聞き入っていた。
「すまない、つい自分のことばかり話してしまった」
 多喜田は詫びたが、希美が笑顔で首を横に振るのを見てつられたように多喜田も笑みを洩らした。それから話題はまた、風土改革活動のことに戻った。

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