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明日へ向かって 49

 長原の昨日の一言によって、啓大の中で何かが弾けた。製薬会社が本当に世の中のためになる薬を創生しているのだとしたら、それに自分が関われるのだとしたら、こんなに素晴らしいことはない。
 ただ、ギター弾いているときほど直接的で即効性のある刺激は、仕事には無理だろうと思った。だって、実験している目の前にオーディエンスがいるわけでもないもんな、そんな研究所あったら面白いかもしれない、とまで考えて、一体自分は何を考えているのかと急に笑いがこみ上げてきた。

 新曲に対するオーディエンスの反応は上々だった。バンド初のバラードは、みんなに温かく迎えられた。作り手として、こんなに嬉しいことはない。
 啓大は、ついこの間のライブで起きた出来事を思い返していた。なんと、オーディエンスがサビの部分を合唱し始めたのだった。これまでもライブが盛り上がれば、オーディエンスがジャンプしたり、ダイヴしたりモッシュした。だが、合唱が起きたのは初めてのことだった。
 最初は何が起きたのか分からなかった。その変化に気付いたのは、テツオだった。二コーラス目のサビに差し掛かったところでテツオが歌うのを止めた。またマイクのジャックでも抜けたのかと啓大は思った。
 以前にも盛り上がりすぎて飛び跳ねて歌っている最中にコードを踏んでジャックを引き抜いてしまったことがあった。
 ギターやベース、プリアンプ、ドラムセットのスネアは、メンバーの自前だったが、マイクやPA器材一式はすべてライブハウスからの借り物である。これらの機材を破損した場合は弁償することになる。ライブパフォーマンスの派手なテツオは機材を壊して弁償させられたことが一度や二度ではなかった。マイクのコードを掴んで振り回してマイクを潰したこともある。一度などマイクスタンドをひん曲げてしまったことがあった。さすがにそのときはライブハウスのオーナーに大目玉を食らってあわや出入り禁止になりそうなところを啓大やアキラでどうにか取り成したのだった。
 またマイクを壊したんじゃないか、でもバラードなのになんでと恐る恐るテツオの方を見やると、テツオは汗まみれの顔の奥で満面の笑みを浮かべていた。何を笑ってやがるかと顎をしゃくって歌うよう促すと、耳の後ろに左手を当て、右手で客席を指した。
 ライトを浴びたステージから薄暗がりの客席は見えづらい。それでも少し目を凝らせばみんなの口が動いているのが見えた。明日に向かってのサビを口ずさんでいる。
 あしたへ、あしたへ、そう言っているのが口の動きで分かった。
 ジェイのドラムを叩く手を止めた。次いでそれに倣うようにアキラもベースを弾く手を止めた。啓大がギターをクリアトーンに切り替えると、今度ははっきりとみんなのコーラスが耳に届いた。
「あしたへ、あしたへ」
 その声は全身を突き抜け、体中の細胞がざわざわと揺れた。目を閉じるとみんなの声とひとつになれそうな気がした。
 そうやってしばらくの間、啓大はサビのリフを繰り返し繰り返し何度も爪弾いた。

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